信じられない。
 なんて迂闊なことをしたのか。
 暗い部屋の中、ドアの向こうの光を背に僕を見下ろす彼の表情は窺い知れなかった。しかし驚愕と侮蔑が含まれていない筈は無かったのだ。同居人の男がベルトを外して腰元まで脱衣した状態で、自分のベッドで寝こけていたのだから。
「……八戒?」
 数秒動きを止めていた悟浄は拳で瞼を擦り、目をぱちくりさせた、ように見えた。僕はその間も動くことが出来なかった。また数秒の間があって、漸く服を着るところまで漕ぎ着けた。
 がたり、ごつり。焦燥と諦観が真正面からぶつかって音を立てる。あえなく罅割れて砕け散ったのは前者だった。僕はゆっくりと体を起こし、ベッドの真ん中にぺたりと座り込んで俯き気味に呟いた。
「魔が、差したんですよ」
 そこからは正に堰を切ったようだった。自分でも驚くほどに、淀みなく事のあらましを述べたててゆく。いつだったかの夜を切欠に、彼に良からぬ感情を覚えるようになったこと。ソレがどちらかと言うと、彼が所謂女役にあたるものであったこと。その感情の真偽を身体に訊こうと試みたこと。そこで彼が朝方まで帰らないのをいいことに、香りの染みついたシーツを「使った」こと。そのまま果ててぐっすり眠ってしまったこと。
 いっそ死んだ方が余程マシに思えるような自白を終え、息をつく。顔を上げてみると、悟浄の表情が漸く見えてきた。怒りも驚きも見いだせないような、不思議な色。
「ね、今度の今度こそ軽蔑したでしょう?」
 自嘲気味に言葉を投げかけても、それは嫌な空気を纏ってそこらに漂うばかり。漸く得られた返答はと言えば、
「ちょい、そのまんま座ってろ」
「えっ?」
 悟浄は上着を乱雑に床に叩きつけるなりベッドに上がり、僕の背側に回り込んだ。くっつくかくっつかないか、ギリギリの距離感で布が摺れる。少しの間をおいて心拍数が一気に上がった。体温も心持ち高くなる。腰から回された右手は、まだ留めていなかったベルトのバックルを越えて、あっという間にファスナーを下ろし、その中へ向かう。
 有り得ない、そんな筈がない、期待なんてしちゃいけない、のに――
「っ!」
 下着の隙間から核心に触れられ、下半身がびくつく。忙しない右手は滑らかに奥へ向かい、持ち上げるようにしてソレを外に取り出す。同時に悟浄はどんどん身を寄せてきて、胸と背中がぴったりくっつくまでになった。開いた脚の間にすっぽり包み込まれる形になる。肩にもたげられた頭から長い髪が垂れる。覆い被さる暖かい体温と、取り出されたところに触れる冷たい外気。何より、先端を解すように撫で繰り回す愛しい指先。眼に見えて反応してしまうのには十分な条件だった。
「ご、ごじょ……? っ!」
 濡れたところから一瞬浮いた手が、今度は竿をいっぱいに掴んだ。
「ッ、ん、っふ……」
 初冬だというのに彼の掌は温かくて、包まれているだけでも震えるほど心地良い。そのうえサービス精神たっぷりに撫でて握って緩く扱いてくれるものだから、みるみるうちに熱を帯びて膨れてゆく。顔まで熱くなってきて、抑えきれない声が漏れる。
 そもそも他人に触られるのなんていつ振りだろう。一年、いや、もっと。それまでもそれからも、深く交わるのはただ一人だと思っていたのに。下を見やれば、赤黒いモノにいやらしく絡みつく指は確かに男のものだ。よく知る細く柔らかい指とは対照的な、骨ばっていて皮の硬い指。こうして見つめると、指先を飾る爪が思いのほか綺麗に整えられていることに気づく。濁った桜色のそれが粘液を帯びて仄かに光る様が、いたく扇情的だった。
 ぐちゃり、どろり。理性と本能が朦朧とした意識の中で溶け合う。じきに片方に飲み込まれてしまう、自分だけが溺れてしまう、その前に。

「……悟浄」
 今どんな顔してるんですか。向き合ってくれないんですか。僕だけこんなに気持ちいいのなんて対等じゃないですよ、ねぇ、だから。
 熱い息をひとつ漏らすたび、伝えたい言葉は喉の奥で融けて消える。うまく頭が回らない。惑わす右腕を、行き場を失っていた右手で掴む。俯いて埋められた顔を見られないものかと、精一杯に首を捻る。
「ね……ごじょ、ってば、」
「……悪ィ。これで我慢して?」
 ――今、なんて?
 即座に意味を飲み込めるほどの余裕が無かった。低いトーンで耳元に落とされた言葉を、何度も何度も反芻する。
 悪ィ。
 謝罪だった。そして確かに拒絶だった。静かで優しくて、分かりにくい拒絶。身体を重ねることはできないと、だから手だけで我慢してくれと、つまりはそういうわけだ。
「ひゃ、」
 半ば機械的に扱いていた手が、またするりと移動した。表皮を押し下げて、顕れた先端を人差し指で軽くつつく。
「痛い?」
「……んっ……いえ、続け、て」
 悟浄はあくまで献身的に、右手をいっぱいに濡らして汚して僕を慰む。その手つきをじっと見つめていると、胸の奥が厭な感じに疼いた。絶対に不快な筈はないのに。悟浄の手指や唇に奉仕をさせている光景は、幾度も思い描かれていたのに。現に今、彼の愛撫の感触と、その手を溶け出す情欲で穢してゆく征服感に、どうしようもなく昂ぶっている自分がいるのに。
 背中からうつる体温と、首筋を擽る長い髪と、意識を奪う狡い指先。これだけ近くで、これだけ官能的な接触をしているのに、本当の意味では決して交わらない。僕から与えることは許されない。顔すらも合わせてくれない。なら、どうして下手に優しくするんですか。気持ち悪いだの一人で抜いとけだの俺は性欲処理機じゃねえだの、最初から思い切り突っぱねてくれた方がいっそ清々しかったのに。でも、貴方が僕の気を知っていてそんな風に言う筈がないことは、誰よりよく解っている。
 冷えてちくちくと痛む心に反して、熱を増してゆくばかりの身体は我慢を知らない。
「あ、ッあぁ……!」
 筒のように丸まった手が、上を向いて蠢くソレを締め付ける。絡みつく指というよりは呑み込む一本のチューブのような感触が、熱を孕む芯に激しく食らいつく。目を瞑れば、ぬるりとした膜を媒介に上下に擦れる温かな感覚は、彼の中に深く挿入っているようで。叶う筈のないその妄想が、一人でした時なんかよりもずっとずっと鮮明に像を結び、頭をいっぱいにしてゆく。痛いほどに重く溜め込んだソコが限界を迎えて大きく引き攣る。
「っふ……ズルイです、こんなの……ぁ、あっ、も、だめ……は、ご、じょぉ……っ!」
 息とも声ともつかないものと共に、すべてが吐き出された。
 絞り取るように根元から揉み解され、僅かに中に残っていた分もとろっと零れる。握ったままの掌は、指の隙間から半透明の糸を幾筋も引いて離れてゆく。
「……淡泊そーなツラして、まぁ」
 悟浄は呆れ気味に溜め息を吐いて、見せつけるように拳を開いた。数時間前に一度出したにも関わらず、今さっき放たれた質量は生半可ではなかった。窪んだ中央に溜まった塊は重力に従って垂れ、手首まで軌跡を延ばす。その様を目線で追っているうちにも身体はみるみる脱力し、後ろに倒れかかった。ぽす、と悟浄の胸に深く体を預ける。確かな体温と拍動に、独り悦がりで果てた後の切なさが少し和らいだ。
「満足?」
 依然トーンを落としたままぶっきらぼうに、悟浄は呟いた。この声音が表すのは怒りでも軽蔑でもなく、どこまでも真っ直ぐな心遣いなのだ、彼の場合は。
「……ありがとう、ございます」
 まだ息を荒らげたまま、僕は力なく告げた。下ろされそうになる右手をとらえ、名残惜しげに指を絡める。合わさったふたつの掌の間で温い液が拡がってゆく。
 本当はもっと触れ合いたい。ごく自然に指を絡めて、唇と舌で触れ合って、身体のすべてでぶつかり合って、深く密に、恋人のように。でもそれは無理な相談なんでしょう。
「これぐらいならさ、出来っから」
 黙って頷いた。貴方の触れ方も体温も、その指をどろどろに汚してゆく背徳感も、とてもとても忘れがたい。僕はもう、独りでは満足できない。
 掌が離れ、少しの間をおいて身体が遠ざかり、悟浄は先にベッドから降り立った。途端に冷気が全身を覆う。ああ、貴方が居なかったらこんなに肌寒かったっけ。くっついたまま寝たふりをしてしまえばよかったかな。
「立てるか」
「ええ、平気です」
 できるだけ気丈に振舞って、僕もベッドから腰を退けた。ふらりとドア際まで歩いて一度振り返ると、オヤスミと小さく呟く声。
「寝込み襲うなよー?」
 軽い調子で告げられた言葉は、彼の本音を端的に表していたんだろう。 身を明け渡すことも僕を追い出すこともしたくない、そんな葛藤が籠っていたように思えた。
 ぐるり、ぐるり。罪悪と快楽が渦を巻く。
 その底はきっと、いつまでも見えない。


 大粒の雨がひっきりなしに地面を叩く。
 どうしても苦手だった大雨が、少しずつ平気になってきた。だって、こんなときは決まって貴方が早く帰ってくるから。けれどそれを悟られてしまえば夜明けまで逢えないから、僕は少しばかり過剰に怯えてみせる術を覚えた。笑えるほど浅ましい。
「……あ」
 瞼を閉じて聞き耳を立てる。水溜りをぱしゃぱしゃと蹴る音。珍しくちゃんと持っていたらしい傘を閉じて、入り口の脇に立てかける音。建てつけの悪いドアを外側に開く音。少し水を含んだ靴下で廊下を進んでくる音。もうすぐ、もうすぐここに辿り着く。僅かに躊躇うように、最後の扉が開いた。
「おかえりなさい」
 ひやりとした手首を引き寄せ、おねだりの接吻をひとつ打ち付ける。その掌に、溜めに溜め込んだ劣情をぶちまける為に。

 幾度目かの虚しい淫夢が、こうして今宵も幕を開ける。




2012-12-21