最初にキスをしたのは先週の、晴れた昼下がり。 舌をそっと滑り込ませたのは一昨日の、薄く曇った朝方。酔って頭がぼやっとしていた気がする。 勢いに乗せて絡ませた舌をいなすように押し返されたのが、ついさっき。数十分前、降り出した雨に気付いた俺は早めに酒場を抜け、自室へ移ろうとしていた八戒を呼び止めて隣に座らせたのだった。 擦れ違う生活の中で重なり合ったいくつかの瞬間に、ぽつりぽつりと妙な変化があって、気がつけばそれが一本の線になる。そしてその向かう先は常識的に決まりきっているわけだ。寧ろ俺にとっては、ここまで悠長に段階を踏むことの方が余程珍しい。イヤ問題はそこじゃない。そんなモンをコイツと踏み始めてしまったことが明らかにおかしいだろうが。 「悟浄」 襟元に滑り込ませかけた右手を手首から掴まれた。 八戒はやはり感情の読みにくい笑みを浮かべつつ、抵抗しないと見てか俺の腕を解放する。 「……なんでよ」 「こっちの台詞です。……まったく、すぐそういう方向にいこうとするんだから」 「ガキじゃねーんだから当然、」 「そもそも、どうしてするんだと思います?」 「……どうして、って」 質問返しは反則だ。とか子供じみた反論では回避できそうにない。かと言って「溜まるから」なんて身も蓋も無い回答はアウトだろう。少なくともこの場では。 「……お互いをよく知るタメ?」 「心にもないご回答ありがとうございます」 そっちこそ心にもねえだろうがと言いたくなる嘘臭い微笑を崩さず跳ねつけると、八戒は背を向けてソファから立ち上がった。慌ててその腕をつかまえる。 「っ、待てって」 言ってしまえば俺だって芯まで染まりきったか分からない。上とか下とか正直よく考えちゃいないし、どう転ぼうがそれなりに気まずくなるのも想定済みだ。でも、お互い今更ちょっとの過ちで傷つくような心身でもなかろうに。それに何より。 「溜まってねーのかよ、そっちは?」 普通に興味をそそられる。お綺麗に澄ました手強くて脆くて掴みにくい同居人の、奥にある男らしい性に。裸の感情に。 しかし決定打を狙って押し出された言葉は、違う意味で場の空気に変化を齎した。 「『それ』が駄目なんですよ」 「は?」 バカみたいに疑問符を顔面に貼り付けているであろう俺を笑いつつ、八戒は次いで言葉を逃がす。制するでも言い聞かせるでもなく、問わず語りのように、宙にふわりと。 「あれ以来でしょうね、体がそういう機能の一切を停止してしまったみたいで。早い話が溜まらない、と」 「…………」 「あははは、信じらんねーとか思ってるでしょお。ヤだなぁ悟浄ったら」 「……思ってねーよ」 正直、多少は驚いた。というより焦った。 しかし今更この破天荒というか波瀾万丈というか、とにかく凡そ普通ではない男の身体や精神がどんな異常を孕んでいようが欠損を隠していようが、大方は引っくり返るほどの事じゃないだろうとも思う。特にこいつの場合、その――そこに影響が出るのも納得できるわけで。 「ね。貴方も面白くないでしょう、そんなものを相手にしても」 「ッそんなものって、お前……!」 思わずカッとなって声を荒げかけるが、どうにか呑み込んだ。分かってる。こいつだって本当はそんなことを言いたい訳じゃない。 暫し沈黙が流れる。見つめてくる瞳の輪郭がぼやけ、まばらな雨が地面を打つ音が段々と遠ざかる、感じがした。 確かに相手が何も感じず退屈そうにしていれば、上手くいくものだって上手くいかない。でも、そんなこいつの身体をこそ自分の手でどうにかしたいなんて想いを抱いてしまうのは、なまじ色事に慣れている所為だろうか、或いはもっと別の―― 「試してみますか」 その台詞で我に返り、耳の奥はまた雨音に満たされる。 少しの間をおいて八戒は、無理でしょうけど、と投げ遣りに付け足した。やはり薄く笑んだまま。それで俺を退かせたつもりか。それとも、却って俺がムキになることまで見越しての挑発か。 冴えた翠の瞳が一瞬、白熱灯の光をうつしとった。ほんの少し涙に濡れているようにも見えた意味深な煌めき。 「断れると思うか?」 計算ずくだろうが、乗せられずにはいられない。 だって雨の夜の八戒ときたら、いつもより少しばかり不安げで、少しばかり強がりで、少しばかり視線の絡ませ方が縋りつくように粘っこくて。俺の言葉を受けての表情といえば、呆れたふうで諦観に満ちていて、それなのに心の底の底では助けを求めているかのようで。 「わ、」 だから、こうしてやりたくなる。 八戒は背中に回された腕に一瞬戸惑うが、落ち着くと俺の二の腕にそっと掌を載せてきた。 拾いたての頃こそ窶れていた身も、今となってはごく平均的な肉づき。背が俺より少し低い程度で華奢でもないし女みたいに柔らかくもないのに、腕の中のそれはやたらとか細く心許なく感じられて、わけもなく不安になる。つう、と冷や汗が額を伝った。 「意外に、あったかいんですねぇ」 いつもの調子でそう言うと胸の中に潜った八戒は大きく、ひどくゆっくりと、息を吐いた。 ああ。そういえば抱き留めたのは初めてだった。試みたことはあったがなんとなく出来なかったというか、きっと知らず知らずのうちに躱されていた。それが今日に限ってこんな、いともあっさりと。 「……なぁ、」 一層激しさを増す雨は風までも孕みだし、轟音が口にしかけた言葉を空へ浚ってゆく。吐息が、ことばが、体温が、まとめて嵐の中に吸い込まれる。檻の中にいるように息苦しい。雨なんて好きでも嫌いでもなかった、筈なのに。 どうしたいのか、俺は。少なくとも救いの神なんぞになりたいわけじゃないが、放ってはおけないのが面倒な性分だ。どうされたいのか、お前は。押そうが引こうが何かがこわれてしまう。今頃になってそれが少しだけ、怖い。 「悟浄」 消え入りそうな声で名前を呼ばれた。ただ、呼ばれた。急かすでも強請るでも止めるでもなく、居ることを確かめるように唱えられた。 「……八戒」 同じようにその名を呼び、湿気で少し広がった髪を撫でた。 今まで考えたことがあったか。どうやって触れればいいか、なんて。 冷えた背中まで滑らせた手は、次の行き先を決めあぐねる。 2013-03-20 |