抗わずにくちびるを受け入れたのは僕なのに。
 しなだれる長い髪を掬いあげたのは僕なのに。
 そのまま煽るように胸に触れたのは僕なのに。
 にもかかわらず貴方は目覚めて目が合った瞬間から、申し訳なさと自己嫌悪をべったり貼りつけたようなひどい顔をしている。
 重そうに少し伏せられた睫毛の下、切れ長な縁の中で浮かぶ小さな瞳が、ふとした瞬間に寂しげな子供のように見えるのは何故だろう。
「早起きですね、まだ八時半ですよ?」
「……ん」
「お腹、空いてるでしょう。何か作りますね」
 言いながらシャツのボタンを留めて立ち上がろうとした瞬間、縋るように腕を掴まれた。
「無理すんな」
「……」
 低いその声に気圧されて腰を下ろすと、「コーヒー淹れてくる」と下着一枚で悟浄が立ち上がった。随分と、気を遣われてしまったものだ。
 遠ざかる背中が見えなくなってから、もう一度寝転がって昨夜のことを反芻する。
 両脚のつけ根の、少しの隙間。そこから更に後ろへ、上へと延長して、別段柔らかくもない肉に挟まれた辺り一帯。濡れる彼の往き来を許したその空間と、後ろから大きな掌に翻弄された中心とが、まだじんわりと熱を持っている感じがする。
 身体について言えば、何一つ苦痛や不快感はなく。じっくりと高めるように宛がわれる指先と唇に、奥底から性感を引きずり出されてゆくようだった。彼が日頃から百戦錬磨だなんて自負するのも、今なら身をもって分かってしまう。
 けれど心はそうもいかない。愛撫の合間、快感と競い合うように、最期の場面がフラッシュバックしてやまなかった。思い出さずにいられない筈だ。今までそんなところに触れるのを許したのは、彼女ひとりだったのだから。
 そもそも、どうしてこの人に許したのだろう。一線を越えたいという意味で彼のことが好きだったかと訊かれると、多分それは違う。確かに感謝はしているけれど、触れられるのを決して嫌だとは感じなかったけれど――
「ほい」
 呼び声に瞼を開ければ、両手にマグを持った悟浄がベッドの真ん前に立っていた。
 起き上がりつつ礼を言って受け取ると、左隣に悟浄も改めて腰かけた。口寂しいみたいに、コーヒーを少しずつ啜ってはいちいち喉を鳴らす。そういえば目覚めてからまだ一本も煙草を吸っていない。偶々だろうか、それともこれも気遣いの一部だろうか。
「大丈夫か、色々」
 トーンを抑えた声と共に、ふと髪の先へ静かに指が触れる。瞬間、何故か背筋に悪寒が走った。
「……ええ、」
 目覚めた瞬間から漠然と心を漂っていた違和感が、漸くひとつの形に収束してゆく気がした。
 彼は、自分で思っている以上に優しすぎる。
 本当に僕は、こんな人から好意を向けられていいのだろうか。負い目を感じこそすれ、こちらからは大したことをしてあげられていないのに。そもそも僕には、もう他の誰かを好きになる資格なんてないのに。
 だから許したのは、愛していたからではなく、まして愛してみようと試みたからでもない。そうだ、僕は、夜中に降り出した雨の音で目覚めて。枕元に佇んでいた彼の眼の中に、劣情が宿っていたのを見て。
 ――犯してくれると思ったんだ。
「……悟浄」
 身体を少し左側に向けて横から腿に触れると、悟浄が明らかにびくついた。残り少ないコーヒーを一気に煽った左手が、マグをベッドの隅に置く。呼応するように僕も右腕を伸ばし、わざわざ身体越しにマグを置いた。二つの陶器がかちんと音を立てた瞬間、悟浄が漸く呼びかけに答える。
「なに」
 手癖のように、伸びた髪を弄りながら。膝の上を撫でだした左手も、そこに覆い被さるようになった身体も、気にかけてなどいない風に。
 その反応が焦れったくて、思わず手が動いた。するりと脚のつけ根まで指を這い上がらせつつ横向きに寝転がり、少し開いた腿の真ん中に頭を預ける。
「……これを、身体の中で受け入れるって、どんな感じなんでしょう」
 つう、と下着越しに中指でなぞって「これ」を指し示す。触れる寸前まで顔を寄せて息をつくと、身体が強張り声が心持ち上擦った。
「はっか、」
「我慢してましたよね、昨夜」
 壊れものでも扱うように、彼は身体の上っ面ばかりを触れ合わせていた。
 無理に繋がらなければいけないことはないのだろうし、その程度が普通なのかもしれない。けれど、そんな情愛ゆえの普通さは、恋人に捧ぐような慈しみは、きっと僕なんかに与えられるべきものじゃない。
 頭の中でまた響きだした雨音が、思考を掻き乱してゆく。ノイズのかかった真っ赤な記憶の中で、殺して、と誰かが希う。
 生憎まだ殺す訳にはいきません。だって貴方は、充分に罰されていませんから。
「……もっと、めちゃくちゃにしてください」
 懇願する唇を、先端にやわらかく押しつける。こんな淫売じみた声音と台詞と仕草を、どこで覚えたものか。けれど無理矢理にでも煽らないと、貴方はひどくなんてしてくれないでしょう。
 触れてほしいのは貴方が躊躇いがちになぞっていた窪みの、もっと内側。そのまま無理矢理に潜り込ませて、堅い感触で埋めつくして、ぐちゃぐちゃに掻き回して、奥に欲望を吐き出して、泣き喚いてしまいそうなほど犯し尽くしてほしい。
 少し唇を開いて布ごと先を咥えこむと、唇の内側に微かな脈動が伝わる。さらに舌先を這わせようとしたところで、急に頭をぐいと押し退けられた。荒い息の合間に、低い声が警告する。
「……マジにすんぞ」
「……マジですよ」
 答えるや否や襟首を強引に掴まれ、頭を膝からどかされた。半ば投げ出すような掌に篭っていたのは、昨夜よりも暴力的な熱。それでいいんです。優しくなんてしないでください。貴方のことを嫌いになってしまいそうなぐらいで構わない。
 誰かに大切に想われるのも、幸福や快楽を分かち合うのも、僕にはもう赦されないから。
「っ、」
 仰向けに倒された身体に体重がかかり、急いた手つきでジッパーが下ろされた。そのまま下着ごと膝までずり下ろされ、太腿を持ち上げられる。
「……ッあ、ぁ」
 間髪入れずに濡れた指を食まされて、腰が痺れるように震えた。迫る異物感を何度も押し出しそうになりながら、動きに合わせてわざと小刻みに声を上げる。上から時折零れ落ちる、どこか切なげな溜息を打ち消すように。
 繋がる部分と顔とを一度に晒すその体位は、辱めにはうってつけだ。彼の視界でみっともなく喘ぐ自分の姿を思うと吐き気さえ覚えて、耐えきれずに目を閉じた。中を掻き回す指が生き物のように暴れて突き上げて、そのたび幾度も腰を揺らす。暫くして熱い感触がゆっくりと引き抜かれると、名残惜しそうに唇が重なり、口腔に舌が挿れられた。――嫌だ、そんなキスはしたくない。もっていかれそうになって、自分の気持ちが分からなくなって、しまいに狂ってしまう。
「ご、じょ」
 それとなく首を捩り、振り払った唇を指で塞いで制する。呆けたその顔に「はやく」と媚びた声でせがめば、惑うような手つきでまた腿が押さえつけられた。
 こうやって曖昧な素振りで、向けられる想いに応えるふりで、淫乱を装ってまで、本当はただ自分勝手に貴方を利用している。
 それもまた新しい罪になるなら僕は、罰を欲するほどに際限なく罪を作り続けるのだろう。
 だから、何度でも罰に犯して。彼女と揃いの痛みをこの身に刻みつけて。彼女の柔らかさまでも忘れてしまいそうなほど、壊して。
 ああ、けれどもしも、ひどく扱われるのに慣れて、痛覚さえ鈍ってしまったら。そうしたら僕は何に縋ればいいのだろう。何処へ行けばいいのだろう。
 ――素直に、彼と生きてみればいいじゃないか。
 今更頭をもたげたそんな提案も、土砂降りの雨に打ちひしがれて端から滲みゆく。
 伝えるべき言葉なんて何一つ思い浮かばず。徐々に渇いてゆく喉はただ、掠れた啼き声と淫らな要求を洩らすばかりで。
「っ、ん……!」
 ずぶりと身体を貫く鈍い痛みに、湿ったシーツをきつく掴んで。僕は多分、泣いていた。





2014-07-31