「一旦やめてみねえ? それ」 「何です?」 突然の提案に虚を突かれた八戒は、口を半開きにして俺を一瞥した。 安宿の一室で過ごす、雨の日の午後だった。八戒は座椅子に座り、茶を啜りながら新聞を読んでいる。雨音だけがしとしと響く静けさを破ったのは俺だ。後ろから急に何か言うと大きい瞳をぱちくりさせるのが可愛いから、時々邪魔をしたくなる。勿論それが主目的じゃないが。 八戒の真横に座り込み、手を伸ばす。そのまま手癖のように唇をなぞると、雨音に混じって微かに喉の鳴る音。あーくそ、可愛い。 「いや、その敬語。今更すぎて違和感なかったけど、初対面からずっとデスマスで話されてんだよなぁと思ってたら、なーんか。名前は呼び捨てなのに」 「わぁ、本っ当に今更ですね……」 呆れたように苦笑を浮かべる八戒。その唇を横から悪戯っぽくつつき、いつもと違う言葉が吐き出されるのを待つ。が、すぐに腕ごと押し戻されてしまう。 「も、やめてください……癖みたいなものですから、なかなか治せないし治す気もないんですよ。貴方も知ってるでしょう」 「知ってる。だから言ってんの」 「……意地の悪い人」 この前も「おはよう悟浄」とか言ってくれたのに。八戒とて常にですますが付いている訳じゃなく、時々砕ける。何故か俺はその瞬間がなんとなく好きで、つい語尾が無意識に気になってしまう。 んー、と新聞を畳んだ八戒はちょっと考え込むようなポーズをして、キャラってものがありますしね、などと言い出した。 「ほら、あなたって丁寧語で責められると欲情するタイプでしょう?」 「いやどんなタイプよ」 著しい勘違い、だと思いたい。でも悪くないのは確かだ。瞳をぎらつかせたコイツに、普段より低い声で罵られたり冷たく嘲笑われたり、何してるんですかと急かされたり、早いんですよと呆れられたり。そんなアレコレでおかしいくらい昂ぶってしまう身体が憎いが、別にそれは丁寧語で責められるのが好きとかそういうベクトルのお話ではなくて、 「愛してるから」 前触れもない熱い告白に、八戒は再び目を丸くした。 「シュミとかじゃなくてさ。どーしよもなくお前が好きだから、ひでー事されてもイイんだって……つーか、なー、話逸らすなよ。ついでに目も逸らすなって」 そっぽを向いてしまった八戒の顔を覗き込むと、口元に手を当て僅かに赤面している。流石に小恥ずかしかったらしい。 「……っ、そうやってどさくさに紛れて誘うようなこと。そんなに襲われたいんですか」 「じゃーお望み通り襲われてやるからさ、今日だけ敬語禁止にしねえ? そーゆープレイだと思って」 限界まで近づいて、綺麗な唇の上で舌先を僅かに滑らす。ちゃんとキスはせず触れるか触れないかぐらいの距離感で、きっと既に我慢ならなくなっている男に追い討ちをかける。一度舌を離して顔を真正面から見つめると、根負けした八戒は黙って頷いた。やった。 こうして俺は、回り回って当初の目的に戻ってきたのだった。 そうしている間にも雨足は強くなっていた。もはや滝のような水の柱が、どくどくと地面を叩く音。外に声が響かなくて丁度良い。それにどうせ、溺れてくうちに聞こえなくなる。 首元に顔を埋める八戒をあやすように、背中を撫でる。柔らかい黒髪が頬を擽る。興奮して息が上がっていて、舌の這うところが生温かい。こんなに貪るように求める八戒は珍しい気がして、こいつの不安を煽る悪天候にこっそり感謝してしまう、が。 「……はっかいさーん。がっついてるとこ悪ィけど、何か喋んないのー?」 「ん……すみません、忘れてまし」 た、と言いかけて、八戒は俺にしがみついたまま言葉を止めた。 「禁止、だった……ほんと、何だっていきなりこんな」 呆れつつも付き合ってくれるらしい八戒は、「ねぇ、悟浄?」と微かに笑って唇を更に上に這わせた。こめかみと耳元に何度か口づけを落としたのち、ゆっくりと蠱惑的に、媚びた息をたっぷり込めた声で囁く。 「愛してる」 鼓膜が溶けて決壊しそうなほど甘い響きに、全身がびくんと跳ねた。 なん――だこれ。やべえ。想像の何十倍もゾクゾクする。無意識に「抑えた」所為か、全身に一瞬で冷や汗が沸いて寒さすら感じた。 どうして脳は、こんなにも言葉に敏感なのか。一文字や二文字変わっただけ、丁寧語が標準語になった程度で、耳障りが全く別物になるのは――こんなに甘ったるく、かつ威圧的に感じるのはなんでだ。なんというか、自分で提案しておいて結局八戒の術中に嵌ってしまったような、訳の分からない形に落ち着いてきた。 「あぁ、なんかやりづらいなぁ」 恥ずかしそうに笑う割に、八戒の動作が止まる気配はない。余韻で動けない間にさっさと畳に押し倒され、シャツの中に手を突っ込まれた。負けじと俺も手を伸ばす。覆い被さる身体ごと抱えて横に転がり、上も下も無く絡み合う。されるのも気持ちいいが能動的にも動きたい俺は、こうやって対等にねっとりと愛撫し合う時間が案外好きだ。 しぶとい腕から一瞬解放された隙に、体を丸めて八戒の懐に飛び込んだ。腹の傷跡を指で辿って何度もキスを浴びせてやると、くすぐったげに身体が揺れて、く、と喉から声が洩れた。 「やめてくだ、」 また八戒はさっきのように言い直す。 「っん……悟浄、やめて?」 頭上から二度目の爆撃。悶絶するほど耳がこそばゆい。確かに野郎口調で「やめろ」と言いそうな男じゃないが、「やめて」て。何ソレ。まるっきり旦那の出張中とかに玄関先で不倫相手に襲われた人妻とかの台詞じゃないですか。しかもそんな息混じりに半音上げて甘えた感じに言われましても。 ああ、また狂わされてきた。こいつは何度俺の新しい扉を開けば気が済むのか。 「……あーもー、やらしー、お前」 「貴方こそ」 元の位置に戻って顔を突き合わせると、どちらからとなく舌を絡ませる。それからは段々と溺れてゆき、口数も少なくなった。まだ、うっすらと雨音は聞こえる。 快楽の淵に残ったひとつまみの理性で、自分をこの状況に追いやった提案について考えてみる。きっかけは多分、下らない嫉妬だ。それこそ今更にも程がある。 ――だって、いくらお前でも「姉貴」に敬語はないだろ? その大事な女には対等に話していただろうに、俺は駄目なのかって。そんなしょうもない子供じみた対抗心。自分でも呆れるというか、本当になんで今更そんなことを思ったんだか分からない。 俺は言葉遣いなんかも全部含めて、今の猪八戒に落ちている。それで十分だって、とうに知っていた筈なのに。 何だかんだでお互い上半身まで脱いで絡まっていた身を起こした。お返しとばかりに跨ってやると、驚いて目を瞬かせる無防備な姿を真上から見られた。ぐ、と細い腰の臍あたりに自身を押しつけて主張する。 「……なぁ、挿れさせて」 持て余した指先で、晒された胸や腹を撫でる。早く落ちろ、委ねろ、と唱えるように。八戒は仰向けのまま幾分か狼狽し、ふいと顔を背けた。 困ったような視線だけをこちらに流し、誘うような声音で――拒絶する。 「……ダメ」 ――おい。その一言で余計に興奮するって分かっててやってんのかコイツ。意識しすぎてほぼ体言だけになる言葉が、切羽詰まってる感じでやたらそそるんですけど。 「だって今日のお前ばかみてえに可愛い……」 「襲われてくれるって言ったくせに」 「まだ晩飯まで時間あるだろ? 後で交替するから。なぁ」 「早い者勝ちでこちらから。そのまま騎乗位で」 「お前ぜっっったい夜まで焦らす気だろ……」 ふと、いつの間にか音が消えているのに気づき、思わず窓に視線を移す。ゲリラ豪雨ってやつか。急速に降り出したと思えば急速に消え去ってしまった。 って、あれ。じゃあ今から本格的に致したら音とか声とか割と外にダダ漏れなんじゃ、 「悟浄、」 下からやけに静かな声で呼ばれ、背筋が凍った。あっれぇ、なんかコイツ雨が止んだ途端に変なスイッチ入っちゃってる気がするんですけど。そんな若干の薄ら寒さと裏腹に身体の中は燃えるように熱く、とにかく触れていたくて腕を掴む。 いつもと違うその口調で、甘ったるく柔らかい言葉は十分もらった。だから。 「どんなひどいこと、されたい?」 そろそろ泣きそうに苦くてクセになる、あの味が恋しい。 2012-05-19 |