『あぁ、ご心配なく。夢ですから』 ――じゃ、そうなんだろ。でなきゃ説明がつかねえし。 叩きつけられた言葉を疑うほどの意識も残っておらず、何分もしないうちに俺は再び闇に沈んだ。 「おはようございます」 ゆっくり起き上がろうとすると、なんとなく重い頭の中に軽やかな声が流れ込んだ。陽がすっかり高くなってから聞く挨拶としてはどうなのか。生返事をして上半身を起こしてみるが、角度を上げていくほどに鈍痛が増す。完全に二日酔いだな、こりゃ。 昨日は確か――そうだ、珍しく家で八戒と飲んでて、まあ当然のごとく俺が先に潰れて、そのままこのソファに倒れて、それで。それで? 「怖い夢でも見ましたか?」 起き上がる気配もなくソファの上で唸っている俺に、八戒は尋ねた。直後に響く、水道から水を汲む音。そっか、夢。そういえば見たような。 「いや、んなガキじゃねーんだから…………あー。いや、怖い……か? ある意味」 段々と思い出してきた。正確に言えば、何だか分からないが映像が脳裏に浮かんだ。 口の中に何かが押し入ってきて目が覚め、瞼を開けたらゼロ距離に同居人(男)がいた。 いかにシュールで信じ難い光景かお分かりいただけるだろうか。 ひとたび思い当たってみれば、それは瞬く間に鮮やかに色づき、感触までも蘇る。 俺が目を開けたのに気づくと八戒は勿体ぶって舌を引き抜き、頬に指を滑らせ、言い聞かせるように声を発した。 『あぁ、ご心配なく。夢ですから』 「悟浄、お水」 「ッ、」 急に寄せられた八戒の顔を見て思わず仰け反った。どういう暗示だよ、あれ。 あの時。闇に薄く煌く翠の双眸は、数秒、真っ直ぐに俺を射抜いていた。 近くでまじまじと見たことなんて無かったから、左右で少し光の反射具合が違うことに初めて気づいた。 そんな光景も、気の抜けたように「あぁ夢か」なんて呟く自分の声も、頭に残って離れない。 それを全部断ち切るように、水を奪い取り身体に流し込む。思いのほか冷えた水が喉を下ると、身体的にも精神的にもどうにか落ち着いた。 「っ、と」 勢いよく傾けて零れた水が顎から首筋、鎖骨へと滴り、タンクトップの中まで潜り込む。ふと背筋が冷えた。水の所為じゃなく、悪寒というか。 「なぁ、八戒?」 「はい?」 普段と何ら変わらない、薄ら寒さすら覚えるような十八番の微笑。とてもじゃないが訊けなかった。「今なんか喉とか鎖骨あたりに焼け付くような視線を感じたんだけど」とか、そんな馬鹿げた事を報告できる訳がなかった。 それで数秒言葉に詰まり、半身を起こしたまま空のグラスを見つめる。 「えー……あ、夢の中でさぁ、『これ夢だ』とか自覚できんだっけ」 「明晰夢ですね。珍しくはないですよ」 「めーせきむ、ねぇ。悟浄はじめて聞いたー」 「どうしたんです急に。夢占いでも始めちゃうんですか?」 「っは、占い! やーだよ胡散くせえ」 俯き気味に、くく、と笑うと、感じるのは喉元を焦がす熱視線。疑心が確信へと移りゆく。 心底では薄々分かっていた。とても夢だとは信じきれなかった。そもそもまず、夢の中で「これは夢です」なんて言われる妙な体験は今まで無かったし。 「……それより、濡れちまったんだけど」 低い声で呟き、空いている左手で弛緩した八戒の腕を引っ張る。すると持ち主にも制御できないと言わんばかりに、掌は濡れた首筋へ向かう。緩やかに引き寄せられ、ぴたりと吸い付く。骨張った震える指先に、一瞬だけ生理的な嫌悪感が走る。しかしもう一度目が合えば掻き消された。何故だか、ストンと腑に落ちてしまったというか。 瞬間、我に帰ったようにはっとするが、その手は離れない。ソファの傍らにしゃがみ込み、上目遣いに俺を見る。 「タオル、取ってきましょう、か……」 ここのところ滅多にペースを崩さなかった男がうっすらと赤面し、明らかに狼狽している。弱ったように眉根を寄せ、唇を強く噛み締め。手と声の震えも隠しきれず、うっすらと冷や汗すら浮かべて。この体たらくで隠し通せる気でいたんだろうか。 一息吐いて少し落ち着いた八戒は、首元から浮かせた手で俺の髪を掬って梳き、俯いたまま呟いた。 「髪、すっかり伸びましたね」 ぱらぱらと肩下へ還る紅色を、線香花火でも見るように嘆息しつつ眺めている。 「……ねぇ、これも夢なんですよ。あなたは水だけ飲んで、無理まだしんどいーとかのたまって二度寝しちゃったんです」 上からもう一度撫でて、掬って、大事そうに口付ける。 「……そう思ってくれなきゃ、困るんです」 そうやってこの男は、一夜の酩酊に乗じて何もかも有耶無耶にしようとする。 「ん、なんかよく分かんねーわ……フラフラする」 本当はとっくに素面だ。頭痛こそまだあるが意識はすっかり目覚めている。自分が酔わないからって、どれだけ俺をナメくさっているのやら。 たとえ夢だと言って誤魔化せても、その後の現実を脅かすことぐらい分かっている筈なのに。それでも歯止めは利かず、しかし落ちたことを認めて真正面からぶつかるでもなく。卑怯だろ、そういうの。余計に意識させられる。 右手から離れたグラスがカーペットに着地した。ずっと持っていたおかげで冷えた手を、八戒の頬に添える。冷てーだろ、目ェ覚ませよ、と。 「まだ言ってなかったな?」 夢の中でしか本音を言えない、なんて抜かすなら、 「おはよ、八戒」 そんな夢、今すぐお前ごと抜け出してみせるから。 「起きちゃ、だめです……」 崩折れた八戒が胸板に倒れ掛かる。弱りきっていた。あの日から積み重ねてきた、まだ当分続くと思っていた、ぬるい当たり前が壊れゆくことを恐れて。 「おかしいんです。この髪に触れる度に思い出すのに、罪悪感に駆られるのに、それでも」 たまに見せる自嘲気味な笑みが、僅かに歪んだ。濡れた瞳に射抜かれる。 「……それでも『今の僕』は」 いやぁ、怖えなぁ。女のみならず男まで惚れさせるとは俺の罪なこと罪なこと。 一度は振られたかと思った美人に。ずっと一人の女だけを大事に大事に抱えて生きて、最悪の形で失ってしまったという男に。ふざけた事を考えているようで、胸の奥は確かにじんと熱かった。 「あの、僕、出て行きますから」 「って、おい。なーんでそういう話になるかなァ……」 「昨夜ね、貴方が潰れたのをいいことに試したんです。本当にそういう風に見てたら、キスしても違和感ないのかなって。最低でしょう」 「で、結果は?」 「……そんなの言わせないで下さい」 「ん、じゃ俺も」 吹っ切れたように何とも言えない顔で笑う八戒の顎を掬いあげた。刹那、時が止まる。 唇を離すと、目の前の顔は惚けたように固まっていた。きっと今、俺も同じ表情だけど。 「ご、じょ」 「……マジで? ねーんだけど、違和感」 しかし八戒は案外すぐに正気に戻り、俯きがちに告げた。 「気まぐれとかお人好しなら、止めた方がいいですよ」 やめてください、と懇願するのではなく、忠告しておくような口調。さっきとは違う風に震える声で。 「わーってるっての」 鼓動が重なって、這う掌が、寄せられる唇と視線が、段々と心地良く身体に馴染んでゆく。あぁ、もう。コイツほんっとに綺麗な顔してんな。憎たらしいぐらいに。 「……っん」 服の上から宛がわれた手に抗うように、且つ煽るように身を捩った。怖い、なんて。柄にもなくそんな思いが頭を過る。一体どこまで落ちてゆくのか。 「すみません」 熱っぽい息の中に、また自虐的な言葉が吐き出される。何も言わず、胸元に預けられた八戒の頭を撫でた。 できるだけ優しく、できるだけ「愛情」のようなものを込めて。 きっとおやすみなんて言えないまま眠ってしまって、違う夢の中へ飲み込まれてゆくから。 だから目覚めたら一番に、「おはよう」ってキスしてやろう。 もう夢じゃない、と教える為に。 2012-06-10 |