どんよりと曇った日の夕方。いつも通り二人でとった宿の一室でベッドに腰かけて、いつも通りそれとなくくっつきあって、いつも通りキスをしていたら。 「ッん、」 掴んだ悟浄の肩が揺らいだ。凄まじい力で体を引き剥がされる。離れる瞬間に舌が擦れ合い、微かに不思議な味がした。 血。 「……え?」 歯に当たっていた感触を、悟浄の舌先を、いつの間にやら噛み千切っていたらしい。 滴る血は真紅の糸を引き、唇を伝って外に垂れ続ける。浅黒い肌の上に形作られた、燻んだ紅い唇の表面を、鮮やかな赤が滑ってゆく。 どうしてか。どうしてか、その様が堪らなく魅惑的で、胃から唾液がぶわっと沸き上がる。頭がくらくらして、引き寄せられるように頬に掌が伸びる。顎を持ち上げ、舌で血を拭った。そのままかぶりつくようにして赤い線をなぞる。溢れる血を唾液と一緒に掻き出して、こくん、と呑み込む。鉄臭い薫り。紛れもない貴方の血の味だ。 この味を知ったのは昼過ぎのこと。 少人数の妖怪を始末し終えた後、ふと彼の人差し指が軽く切れているのが目に入った。球状に浮き上がった赤に目を奪われ、無自覚のうちに舌を這わせていた。 悟浄は一瞬目を丸くして、ちらりと周りを伺った。我に返って指から唇を離すと、「なーに、欲求不満?」なんて意地悪っぽく囁かれたものだから、思わず赤面した。三蔵と悟空が見ていなかったのが幸いだった。どうして外で咄嗟に、そんな恥ずかしいことをしてしまったのか。 昼間の光景を脳裏に浮かべながら、また舌をつかまえて吸う。止まらない。雫が舌を伝うたび、至福に包まれる。血の巡りが速くなるような、細胞が活性化してゆくような、そう――勿論使ったことなど無いが――麻薬のような快感と中毒性。 息が持たなくなり、咥えた舌を解き放した。混ざり合った液を呑む。悟浄は痛みに目を眇めて口許を押さえ、僕の喉が小さく音を立てて動くのを見ていた。痛え、とも、何しやがんだ、とも言わない。言えないぐらいに当惑しているのだと思う。 二人して呼吸を整えようとしながら、馬鹿みたいに顔を見合わせる。深紅の瞳は興奮で極僅かに潤んでいる。その双眸には今、どんな光景が映っているだろう。息を荒らげ、血に濡れた口の端を拭う僕は、どんなに獰猛な獣のようだろう。 心臓がうるさくて敵わない。もっと、もっと血が欲しい。小さく震える首筋に噛み付きたい。自身の奥の獣の部分が、意識を奪おうと理性の壁を内側から強く叩く。左耳に触れれば確かに冷たい点が三つあり、少し落ち着きを取り戻す。大丈夫、これがある限りは。早く、早く貴方から離れなきゃ。 「……すみません。頭、冷やしてきますね」 短く告げ、悟浄の反応も確認せずに立ち上がった。夕食までは外を出歩こう。 無差別に肉を喰らうならまだしも、血のみを好んで飲むのは本来、妖怪の性質ではない。どちらかといえば西洋の伝承の――ヴァンパイアの類だろう。何が起こっているのか。 妖と人の間に生まれた悟浄。人から妖へ変貌を遂げた僕。この二人が『深く交わる』ようなことが繰り返されれば、桃源郷を揺るがしうる突然変異だって起こり得るのではないか。 我ながら突拍子も無い、しかしおぞましい推測に、背筋が震えた。 「八戒?」 夕食に手をつけずにいると、悟空が不安げに覗き込んできた。 「すいません、あまり体調が良くなくて」 右隣に座る悟浄も、舌を怪我した所為で食べるのに難儀している。悪いことをした。殆どのおかずが悟空によって平らげられている状態だ。その彼が食事を中座してまで心配してくれるものだから、何だか申し訳なくて恐る恐る箸をとった。たった今置かれた八宝菜を口に運ぶ。 予想通りだ。 何の味も、しなかった。 夕食後には新しく部屋をとり、悟浄に移動してもらった。一人には広い寝室で浅い眠りを繰り返したものの、3時頃には面倒になって身を起こした。 廊下に出てみると、当然ながら真っ暗で無音だった。響くひとりぶんの足音を聴いていると、僕だけが世界に取り残されたような気分になる。 僕の世界は、すっかり色を変えてしまった。料理の味が分からない世界に、貴方を傷つけなければ生きられない世界に、意味なんて在るのだろうか。 窓からは眩い月の光が射している。雲はどこかに去ってしまったようだ。 陽が昇ったら、僕は―― 「八戒」 くぐもった声に、肩がびくりと震えた。悟浄の部屋の真ん前で立ち止まる。 「……どうしたんですか、こんな明け方に」 「目ェ覚めたから。ってか、どーしたんですかは隔離された俺の台詞だっつの。……なに、風邪?」 「そんなところです」 態とらしく咳をすると、これまた態とらしい溜め息が聞こえた。お互いに、子供じみた言い訳が通じる相手ではない。 「夕方のことなら、まぁビビったけど……怒ってねぇから、な?」 「そうじゃなくって、」 一瞬、言葉に詰まる。しかし、一旦出かかったものは簡単には引っ込んでくれない。 「血が……貴方の血が、欲しくって堪らないんです。……一緒の部屋に居たら、いつ貴方を殺してしまうか分からなくて」 「何ソレ、吸血鬼?」 「かも、しれないですねぇ」 少しの間があった。応える悟浄の声音は存外に落ち着いていて、僕の異常を十分に察してくれていたようだった。 「そんで晩飯の時なんも食えなかったワケ? 腹減ってんだろーが」 「う、」 指摘を受けて、どうにか忘れられていた空腹感が蘇る。夕方に貪ったあの匂いが意識を埋め尽くし、どうしようもなく唾が湧く。 足音が近づいてくる。どうか扉を開けないで、部屋に入る許可を与えないで。貴方をここに移した意味が無くなってしまう。 「入れば?」 ぎっ、と音がして、赤い瞳が闇に浮かんだ。 「……駄目です、そんな」 今の僕からすれば、彼の持つ色は悉く目の毒だ。口許を手で覆って視線を逸らす。が、すかさず逃げる頬に手を宛がわれ、親指で緩慢に唇を撫で回される。指の腹に歯を立てたくなる衝動を、寸での所で抑えた。 「血の気は多い方よ? つかヤバくなったらどーにでもするっての。お前なんかに殺されてやんねー」 あっという間に唇を奪われる。柔らかい感触と、視界にちらつくさらさらの紅い髪と、芳しい命の匂い。 涙が出るほど恋しかった。 咥えた指を噛み切れば、皮膚が裂けて温かい血が滲む。アルコールとニコチンに侵されているだろうに、不思議なくらい甘く感じた。悟浄の痛がる顔や小さく上がる悲鳴に、段々と嗜虐的な快感が増してゆく。シーツの上に仰向けで据えられ組み敷かれた肉体の、次は何処に噛みつこうか。 食欲をそそる色をした髪をかき上げ、首筋を晒させる。脈打つ処に舌を当てると、傍で小さく喉が鳴った。歯を立てると溢れ出す鮮やかな赤は、薄闇の中に開いた華のよう。 「ってぇ……」 痛みに声を漏らすその身は、一方では確かに快楽に震えている。傷口に吸いつくと焦れた身体がくすぐったげに揺れて、表情にはとろりと恍惚が滲む。このまま一気に突き上げてやったら、どんなに淫らに魅せてくれるだろう。空腹が少しずつ解消されるにつれ、本能は別のモノを求めて疼きだす。ああ、いつかに「食事中に別のことしないでください」なんて言ったのは誰だったかな。 「ね、ごじょ、う……一緒に満たしてイイですか?」 答えを待たずその口を赤く濡れた唇で塞ぎ、内腿に指を滑らせた。意思を持ったように昂ぶり蠢きだす部分から蜜を掬い、口に含む。これもまた、やみつきになる程ほろ苦くて芳しい。 「ん……ナニそれ、んなのも美味ぇの?」 「味見しますか?」 粘液を人差し指と中指に絡めとり、間髪入れずに悟浄の口に突っ込んだ。 「ッん、ふ」 「ほら、濡らさないと。痛いの貴方ですよ」 そう言うと悟浄は不服そうなまま口をもぐもぐさせて指を舐った。唇と舌で指先の温い蜜を徐々に剥いで、全体に膜を張るように濡らす。糸を引いて抜いた二本の指を下に宛がうと、ぎこちなく腰が揺れた。乾いた壁に阻まれては指を抜き、粘っこく濡れる性器から水を得てまた深いところまで追い詰める。指を増やして掻き混ぜればびくんと膝が跳ね、意地を張るように閉ざしていた口元が少し開く。鳴けばいいのに。聞こえるか聞こえないかぐらいの声で呟き、根元まで一気に呑み込ませて緩慢に指を曲げると、漸く甘えた声が零れた。 浮いた腰をとらえて股を抉じ開け、身体を折り畳むようにしながら満たす。時々小さく唸って締めつけるものの、徐々に柔らかく解れて深くまで誘ってゆく。 今日はとりわけ具合が良い。突き立てられる熱を受け容れる身体と矛盾して、表情は少し厭そうに、逃げるように顔を逸らす。しかしその仕種は喉元を差し出して誘うようでもあって、素直なのか意固地なのか判然としない。その場所まで顔が届くようになると、また噛みついて穴を穿った。 「ッつ……!」 悲痛な声と共に湧き上がる血を、ちゅく、と音を立てて吸い出しながら、休まず腰を動かして激しく揺らす。 「は、っ……んぁ、あッ、や……!」 よがって痛がって、捩れる熱い身体。ばらばらと乱れる長い髪。それらが頸や鎖骨の辺りから流れる鮮血を纏って踊る様が、堪らなく色っぽくて美味しそうで、呑まれたところに重く熱が溜まる。しかし悟浄の方はもう臍につくほど反り返って、すぐにでも吐き出したそうに小さく痙攣を始めている。 「ん、ごじょ……もうちょっと我慢、できます?」 動くのを止めて指で唇をゆるりと撫でると、解し始めた時から頑なに瞑っていた眼が勿体ぶるように開く。すこし充血して赤らんだ白目の中心に、ピントのぼやけた深紅の瞳。痛みと快感とを掻き混ぜたような涙が、深い血の色の珠を一層煌かせている。思わず息を呑んで、痛いですか、なんて訊いた。悟浄は静かに頸を縦に振るも、濡れて蕩けたその顔のまま繋がった腰に腕を回し、引き寄せようとする。焦らすな、と言わんばかりに小さく喘ぐ。つくづく貴方はいじらしい。 「っふ……はっ、かい。ココ……まだ、出てるから」 悟浄は一番新しい噛み痕に艶かしく右手を這わせ、魅せつけるように血の付いた指を舐めあげる。禍々しい紅をルージュのように指でひいて、その端を吊り上げて笑む。真っ赤な眼が挑発的に光った。 「……固まっちまう前、に」 ぜんぶ、喰って。 限界まで熱と情欲を孕んだ声で、貴方は懇願した。 僕の世界は、確かに色を変えてしまった。けれど貴方を抱いて二倍満たされる世界なら、黒の中に赤が散る美しい闇の世界なら、僕は。 目覚めたときには、半分悟浄の上に乗っかってうつ伏せになっていた。折り重なったふたつの身体に、東の窓から朝の光が注いでいる。 「……あぁ、何だ、そうか」 寝息を立てる悟浄の髪を撫でながら、自嘲気味に僕は呟いた。 日光を浴びても、灰になんてならなかった。 心の何処かではとっくに分かっていた事じゃないか。ずっと銀のカフスを平気で身につけていたし、犬歯だって発達していない。 何が吸血鬼だ、荒唐無稽にも程がある。思い込みに酔い痴れて、自分を誤魔化していただけだ。 お前はただあの男の血を飲む妄想に偏執し、身体までも変質させるに至った得体の知れない化け物だ。 それでも、乱れて暴れる身体や艶やかに濡れる眼や髪や、シーツを染める血の色や香りは、心を捕えて離さない。 また少しお腹が空いてきた。昨夜散々吸い尽くされた悟浄はきっと貧血だろうが、視界の隅にちらつく誘惑からは逃れ難い。せめて「こっち」ならと、ふにゃりとしな垂れた冷たいものを持ち上げ、温い舌を這わせた。いただく前に起こしてしまうだろうけれど。 「悟浄、僕ね、もう戻れないんです」 届かない言葉を投げかけて、まだ柔らかい先っぽを唇で食む。裏の筋を人差し指と舌先で焦れったくなぞる。早く、早く、貴方の中に通う液で渇きを満たして。 贋者だろうが左道だろうが構わない。陽のあるうちは平生と同じに振舞うから、二人に怪しまれないように食事も形だけはとっておくから。 だから、ねぇ、二人きりの夜にはどうか、貴方を貪らせて。 2012-11-23 |