住まいの話をしよう。
 街の喧騒から離れたこの一軒家は、古びているが独り暮らしには充分すぎる広さだ。ひょんなことからマメな居候が増えるまでは、持て余していた部屋もあった。風呂場も例に洩れない。数える程も使われたことのなかった小さな浴槽は今や毎日湯を張られ、翌朝きちんと掃除される。
 今日も夕飯を終えてすぐ八戒が蛇口を捻りに行き、ちょうど一杯になったばかりの風呂場に居るのだが。
「……っ八戒、も、キツイって……早く、いれっ……!」
「もうちょっと辛抱できないんですか?」
「だぁって……ふぁ、ッ……ぶぇっくし!」
 ぴた、と八戒の手つきが止まる。
「……だっ、さみぃっつってんだろ、浴、槽、に、入れろッ!」
 鼻を啜りつつ、俺は浴槽の外から叫んだ。

 そもそものきっかけはと言うと。
 早めの夕食を終え、暫しダイニングでぼやっと煙草を呑んでいたら、横から八戒の腕が伸びてきた。つい、と肩あたりから毛束をつまみ、顔を寄せてまじまじと見つめる。
「だいぶ伸びましたよねぇ、毛先傷んでません? あ、ほら枝毛」
「あー。いつから切ってねーかなぁ」
「明日から宿の保障もない長旅だっていうのに、大丈夫なんですか」
「って今から切んのか? めんどくせえ」
「切る分には鋏さえ有ればいつでも出来るじゃないですか。僕が懸念してるのはケアの方です」
 八戒は掬った髪を掌からこぼすと、ふいに背を向けて小走りに去って行った。数秒の間に、洗面所に置いていたらしい薬局の袋を提げて戻ってくる。
「ワゴンで見かけて買っちゃったんですけど、自分では使わないかなって。とりあえず試してみて、良ければ持って行きます?」
「……トリートメント?」
 取り出されたのは、パール加工を施した煌めく薔薇色のチューブ。見覚えがある。確か結構好みの女優が広告に出ていた、そこそこ値の張るヤツだ。
「こーゆーの、普通のリンスとは違ェんだろ? 使ったことねえんだけど」
「大丈夫ですよ、やってあげますから」
「は?」
「ほら、そろそろお風呂も沸くことですし」
 八戒はぐいと俺の腕を浴室の方へ引く。
「……あのクソ狭い風呂に二人で入るってか?」
「片方が浴槽に入ってればいいじゃないですか」
「その片方は確実に俺じゃねーだろ」
「冷え性なんですよ、僕」
 理由になってねえ、と突っ込む暇すら与えられなかった。

 こいつが頭と体を流す少しの間に風呂を戴き、交替して俺も流し、また替われと言いかけたところで浴槽の前に座らされた。と思ったら、八戒は湯に浸かったまま手を伸べ、俺の髪をぎゅっと絞った。そして持ち込んだトリートメントを念入りに延ばし、撫でるように髪を梳き始めた。
 そんなこんなでかれこれ5分。体表に貼りつく滴はどんどん冷えてゆき、湯冷めとかいうレベルではない。寒い。つうか痛い。
「もうちょっとで終わりますから、ね?」
 反省を欠片も含まない、弾むような声に溜め息が出る。野郎の髪を弄くるのがそんなに楽しいか。
 八戒は一反の布のように髪を平たく延ばしてトリートメントを刷り込むと、タオルで簡単に纏めて包んだ。
「このまま5分ぐらい蒸らしてから流せば完了です。拭く時はくれぐれもガシガシ擦らないように、傷みますから」
「じゃ交替」
「あ、僕あと3分は半身浴しなきゃいけないので。出た後にしてください」
「…………」
「この狭さじゃ二人は入れ……なくはないですけど、ムリヤリしたら色んなトコが触っちゃいますし、ねぇ?」
「…………お前なぁ……」
 誘うような含みのある言い方と、そんな感触の想像だけでもかなりクる。狭苦しいハコにぎゅっと押し込まれて密着した身体が、温かい水の中で絡み合う感じ。明日から暫く出来なくなるであろう、魅惑的ながら貧乏臭いプレイ。ただし今はそんなものを楽しむ余裕はない。それ以前に、「今夜はシない」と先立って決めてある。
「……ふぅ、じゃ上がります。見ちゃダメですよ?」
 膝を抱えて震える俺に忠告し、八戒は反対の方からさっさと出て行った。
 ひとしきり独りで呆然とした後、覚束無い足どりで俺は浴槽にダイブした。急激な温度差に、全身の肌が信じられないほど粟立った。

 理不尽に削られた体力を湯船で幾分か回復した後、タンクトップとジーンズを着て洗面所を出る。リビングに待ち構えていたのは、そわそわした様子で正座待機する八戒(ドライヤー装備)。
「早めにブローしなきゃ台無しですよ」
「あ゛ーもー、わーってるっつーの」
 すっかり慣らされて抗うのも面倒な俺は、見事に言いなりだ。
 カーペットに座り込み、髪を後ろに軽く引っ張られながら、頭皮を温風に撫でつけられる。空気に乗ってふわりと漂う、ちょっとやらしい類の香り。温かいにも関わらず、またひとつ派手なくしゃみをかました。
「……お前の所為で止まらねえんだけど」
「そんなに寒かったですか?」
 いけしゃあしゃあと言ってのけ、構わず八戒は湿った髪を梳いてゆく。旧いドライヤーはうるさく吠え、後ろからの声をかき消そうとする。八戒は声が届くように時々頬を寄せ、からからと愛らしく笑いながら囁いた。
「やらしいことでも考えてるんじゃないですか」
「あ?」
「くしゃみ、たまに出るでしょう? そういうときに」
「どこ情報よソレ」
「それは僕の……って、ちが」
 少しきまり悪そうに、八戒は寄せた顔を離した。櫛とドライヤーを持つ手は暫く休みなく動き、のちに轟音が止んだ。
「大方乾きましたね」
「うおっ」
 おろされた髪を撫で付けてみれば、確かに手触りが全く違う。差し入れた指は淀みなくするすると毛先まで至る。今までだって全く手を加えなかったわけじゃないが、流石に女物の上等なトリートメントなんぞ使う機会はなかったから度肝を抜かれた。
「気持ち悪ィぐらいにサラッサラだな……」
 毛先を弄びつつ呟いていると、八戒の手が背後から触れた。旋毛を指でなぞり、後頭部から首のラインに沿って髪を撫で付ける。手櫛で繰り返し梳く。滑りが良いから、撫でられているこちらとしても普段以上に気持ち良い。
「……良い香り」
 少しトーンの低い囁き声が、ゆっくりと耳を舐める。匂いを嗅ぐようにして、横から八戒の顔が近づいてくる。はぁ、と首筋に熱を帯びた吐息がかかる。ふと目が合えば、今にもキスできそうな距離。ていうかこいつが頻りに髪を撫でてくるときは決まって、
「っくしゅ」
 閉じかかっていた目を開けると、すぐ近くにあった筈の頭がすとん、と落ちていた。今度は俺が旋毛を拝む番になった。
「……やらしーこと考えてる」
「……当たりです」
 八戒は上品に袖口で口許を覆ったまま、上目遣いに悪戯っぽく笑んだ。正直すげえかわいい。仕草の主が今まさに男を襲おうとしている奴でなければ。
「せんせーえ、明日の為に疲れるコトはやめときましょーねって言ってませんでしたっけー?」
「前言撤回でお願いします」
 満面の笑みで告げる八戒の指先が首元に絡みつく。案の定、今夜も流された。

 改めてベッドにぽふ、と寝っ転ばされたとき、襟足から芳香が弾けて鼻をついた。
「あ」
 それで思い出した。
 ――薫る媚薬。
 トリートメントの広告にあった、キャッチコピーみたいなやつ。色っぽく髪を靡かせた女の写真の上に踊る、きらびやかな飾り文字。ついでに言うと多分その広告を見たのは確か、いかがわしい類の雑誌だった。
 そんなまさかとは思うがなんかそーゆーギリギリ合法っぽいアレな成分が含有されているのではっていうかコイツ自身は分かってるんだろうか。
「……八戒、これあかんやつや」
「はい?」
 かくんと首を傾げて不思議そうに見下ろす姿は、性質の悪い演技ではないらしかった。

 結局ソイツが旅に持ち出されることはなく、今も我が家の棚の奥に封印されている。もし、万が一、帰ってきた時にカビでも生えていなければ。
 そのときは、多分また。




2013-01-10