「……荷物こんだけなら俺いらなかったろ」 「いいじゃないですか、たまには」 缶詰と野菜と果物を詰めた紙袋を支え持ち、家までの帰路を淡々と歩く。陽はすっかり落ちようとし、舗装が行き届いておらずいつも人けのない道の脇では、ぽつぽつと申し訳程度に佇む古い街路灯が俺達を見下ろしていた。 蒸し暑くて出かける気になれず夕方までだらけていたら、どういうわけか久々に夕飯を一緒に食べましょうかなんて話になり、どういうわけかその為の買い物にまで駆り出されたのだ。珍しく二人で出向けば必然的に、八戒と親しい店のおばちゃんや常連客の好奇の視線を浴びまくるわ矢継ぎ早に世間話を振られるわ、大して量のない荷物持ちより余程こっちのほうが辛かった。 疲れきった俺に対して八戒は寧ろいつもよりご機嫌そうで、ぐずぐず歩く俺の一歩先を颯爽と進みながら、落とさないで下さいよ、とか時々にこやかに釘を刺してくる。 ふと、やわらかく笑うその頬に水滴が落ちた。 「あ」 それは間もなく数と勢いを増し、俺の頭や肩をぱらぱら叩いたのち、大粒の俄雨に変わった。 「折り畳みが……」 と、八戒が肩に掛けた鞄から悠然と取り出した小振りの傘は、骨を一本やられて隙間から空まで見えていた。俺が思わず小さく噴き出すと、いつの間に、と八戒も困ったように笑う。 「何もねえよかマシだろ。いーよ俺走って先帰っから」 湿って色が変わってきた紙袋を抱え直して一歩踏み出したところで、服の裾を強く引っ張られて危うくつんのめる。何だよ――と訊きかけて振り向くと、八戒は呆れたように溜息を吐いた。物言いたげな視線と相まって、まるで独りにするなんて論外とでも訴えているようで、思わず身体がその場に縫いつけられてしまう。こんな時のお前は、ちょっと狡い。 八戒は見えないなぁ、なんてぼやきながら眼鏡を外して仕舞い、使い物にならなかった傘を丁寧に元の袋に戻し始めた。間違ってもその辺の脇道に投げ棄てたりはしない辺りがコイツらしい。 「いっそもう、一緒に濡れちゃいましょうか」 「ヤローと濡れる趣味はねーんだけど?」 「あはは、今さら何をのたまいますか」 返す言葉に困った瞬間、狙ったように雨足が急激に強くなった。夕立ちってレベルじゃない。八戒は俺の空いた指先を弄びながら、ほんの少しだけ意地悪そうに口の端を上げた。 「……ここじゃ、だぁれも見てませんし、ね?」 そんな台詞の端に滲むのは、人目さえなければ何したっていいでしょう、なんて言いたげな強引さ。いつからこんなに開き直ったんだか。改めて右手を執った八戒の、ダンスにでも誘うような畏まりっぷりが可笑しくて、笑いがこみあげてくる。少し遠い唇がまた小さく動いたのが判ったが、ざざ降りの音に囲まれてまともに聞き取れない。顔を近づけてみると、 「――ら、もうこんなに」 ノイズを裂くあざやかな声色で囁きながら、八戒は濡れそぼった掌を俺の首筋に絡みつかせて、自然に唇を重ねてきた。 それは雨水にたっぷり浸けこまれたように、きんと冷たく、潤って、柔くふやけていて、生ぬるく蒸すような夏の雨のなかで触れたその一点の感触が際立って気持ちいい。呼吸がふっと停まって、薄く開いたその眼と同じ色をした水の中に、沈みゆくかのような感じがした。 「……びしょ濡れですよ」 「……やっだー、八戒がシツコイせいっしょ?」 唇を解き放して息を取り戻してもまだ、心地よいその湖の中から浮き上がれない。いっそもう、このまま溺れさせて。そんな戯言を口にするかしないかのうちにまた呼吸が重なる。今度は、より深く。 すとん、と左手に抱えた重みが無くなって、ぐしゃりと地面に落ちる音がぼんやりと聞こえて、たぶん、一番上に載っていた林檎がひとつ地面に転がった。開けたばかりの煙草はきっともうポケットの中で溺れて、只のふやけた紙屑に成り果てているだろう。 お互いのなかに潜るような舌がまた離れると、八戒の視線は足元に投げ出された袋に一瞬移った。が、慌てて拾うでも勿体無いと嘆くでもなく、少し愉快そうに笑うだけだった。微妙に、らしくない。どっかぶっ壊れてる。いい意味で。 「後でちゃんと洗えば大丈夫ですよ。……あ、もしかしてお腹空きました?」 「や、そんなに」 「そうですか」 ならもうちょっと、と八戒は俺の頬を包んでいた指を滑らせて、焦らすような手つきで首筋をなぞりだした。整った鼻先と唇が近づいて、触れたり触れなかったりしながらその周りをくすぐったくうろつく。こっちに向けてがら空きになっているその旋毛から、いつもならクセで膨らんでいる黒髪が頭の形に沿ってぺたんと流れているのがなんだかよくて、天辺からその線をなぞる。濡羽色って、こんなのを言うんだろうか。水と光を絶えず得て艶めく毛束が指にへばりつくさまに感じた欲情は、ふいに鎖骨の窪みを悪戯っぽく辿った舌先のせいで余計にあふれた。思わず出そうになった声を隠すように、努めていつもらしい声で言う。 「……って、汗くせえだろ」 「雨のにおいしかしませんよ」 まあ、昼間かいた汗だって流れるだろう。シャワーどころかバケツをひっくり返したようになった雨はどうどう言いながら二人を押し流すように殴り付けて、もう髪も服も乾いたところはひとつだってない。 回りますか、と顔を上げた八戒は唐突に明るく告げた。 回るんですか。 ええ回るんです。 答えながら八戒の手は、今度は両方でしかと俺の手を執った。後ろへ踏み出しながら円を描くように緩慢に廻る八戒につられて身体が動き、気のきいた伴奏も決まった手順もなしに不格好な踊りが始まる。図体のでかい男が二人、手に手を取って水溜まりを蹴散らしながらぎこちなく跳ねる。なんてバカみたいな光景だろう。水を吸い尽くしてすっかり重くなった服を纏った身体が、なんて普段より軽いんだろう。 心許なく瞬くひとつっきりの灯の下で、いつもは理知的に澄んでいる瞳が忙しく揺れ、子供のように煌めいている。 「傍から見たら酔っぱらいだな」 そう呆れて笑った時ちょうど、八戒が身を寄せた状態でその動きを止めた。ぴったりとくっついた腕と、その上方で深く絡めなおした両の指はもう、ひとつになって離れられないようにさえ感じた。 「素面ですってば。……もぉここまで訳分かんない降り方だと、却って気持ちいいかなぁとか思えるよう、に」 言いかけたところでどちらからとなく滑った足が縺れて、向き合ったまま水びたしの脇道に倒れ込む。ちょうど草のある所に頭をついたのがまだ幸いだった。 上に覆い被さった八戒の向こう側の微かな光が、ごく近くにある表情を照らしだす。額には分け目の崩れかけた艶々の黒髪が貼りついて、瞬きする睫毛からは雫がこぼれて、それに縁取られた眼までも雨に打たれたように潤んでいる。 溺れる感覚がいっそう、深くなった。触れるところが増えるたび、濡れた全身がより近くに寄せられるたび、どんどん境が曖昧になって湖底まで呑み込まれてゆく。ぐしょぐしょで重くて冷たくて妙にあつい塊の、どこまでが自分の身体か、そのドコがナニのせいで濡れてるんだか、もうとっくに何も判らない。 「……それに、ね」 それから耳許を震わせた幽かな囁きは、なんだかやけに甘ったるく照れ臭く、俺に都合がよすぎる気がして。 だからきっと聞き間違いだと思って、何も応えずただ引き寄せて蕩けそうな唇を舐めて、もっと深くまでいかせてとねだって、無邪気に欲しがる碧い眼にすべてを委ねた。 2013-07-22 |