ゆっくりと視界を取り戻しつつ熱を残した身体を持ち上げ、いつの間にかすっかり脱げていたパンツを履き直した。一瞬、目がくらむ。一日中太陽が隠れていてはっきり分からないが、そろそろ夕方から夜に差し掛かる頃合か。 「悟浄」 ひそやかな呼びかけと一緒に、すう、と。既に身を起こしていた八戒の細い指が伸びてきて乱れた髪を梳き、耳朶に軽くキスが落とされる。余韻にひたるような艶っぽい溜め息が耳をかすめて、痛む身体をも懲りずに煽る。少し、悔しいほどに。けれど旅の中では、飽きがくるまで抱き合うほどの余裕は常にはない。 「……メシ」 「……あぁ」 唸りつつ半裸で伸びをする無防備な首筋に、ぽつんと浮いた色が見えた。鎖骨に行き着くあたりに一点、紅い鬱血。間違いなく自分のものだろうに、いつの間につけたんだかまるで覚えがない。黙っといてやろうか、好き勝手されたお返しに。 「そろそろですねえ。いい匂いがしてきました」 八戒は慣れた口調でいつものように、穏やかに告げた。その点には敢えて触れず、俺もいつものように気だるげに応えつつ立ち上がる。 「おー。先にシャワー浴びてくるわ」 「悟浄、」 小さく呼びとめる声に立ち止まりも振り返りもせず、ん、とだけ返すと。 「どうしてあんなことしたのかな?」 「…………」 「言ってごらん?」 思わず動作を停止した俺に弾んだ調子で尋ねる八戒がどんな風に笑んでいるか、振り返らずとも分かってしまう。幼児を宥めすかすような語調に気恥ずかしさが増して、一先ず出てきたのは態とらしい誤魔化しの溜め息。続いて、それほど嘘でもない呟き。 「……アレよ、コイビトごっこ的な?」 「それじゃ僕ら恋人じゃないみたいだ」 「そうなんでねーの」 じゃあ何なのか、と。漸く振り向いた俺に八戒は目で問いかけた。ダチとしては行き過ぎにしても、コイビトと言うほど甘美かつ型に嵌ったものでもないと感じる。それは多分あっちだって同じだと思うんだが。 「べつに。なんだって」 お前ならいいし、世間様の決めた枠組みに嵌め込む必要もない、と。途切れた言葉の先の真意を汲んだのか、八戒はまた幸せそうに微笑んだ。その唇が懲りずにカワイイだのなんだの愛でる言葉を発するから、耐え切れなくて掌で塞いでやる。すると八戒は一瞬きょとんとしてから、その手に自分の指を絡ませて退けてみせた。ついさっきのとは雰囲気の違う薄笑い。余裕げに誘うときなんかによく見せる、強かな猫みたいな眼。嫌いじゃない。嫌えない。でも否応無しに背筋をぞっとさせるような魔力があるもんだから、ちょっと苦手だ。 「……な、まだソレ続くの? 『そーゆープレイ』って約束だったんだしもうよくね?」 「でも、こっちのほうが馴染んできちゃったから」 数秒の間をおいて、八戒はやっと困ったような苦笑いを見せた。 「……なんて、ほんとはちょっと変な感じです。でも貴方が落ち着かなくなるのが面白いから、たまにしたいなあ」 ――そうそう何回もされちゃ身がもたない。ねえ、ほら、なんて呼びかける声はいつもより軽やかで。愛してる、とか可愛いなぁ、なんて歯の浮くような台詞は短く言い切るほど小恥ずかしい。そのあとの詰るような台詞は、言わずもがな。ヘタすれば言葉だけでも身体が反応してしまいそうで、ああ、もしかしなくてもコレって調教されてるってことか。 色々と釈然としない気持ちはあるがとりあえず表面は取り繕って、呆れたように答えながら指をほどいた。 「……はいはい、ソレはまたいつか。つーかシャワー浴びてきていいか」 そして殆ど返事を待たずに、逃げるように脱衣所に滑り込む。と間もなく、鏡の前で眼を疑った。――おいおい、と顔を覆った。 剥き出しの上半身の、首元から鳩尾、更に二の腕にまで飛び火して、ばらばらと吸い痕が散っていた。倍返しなんてもんじゃない。指で辿ってみると執拗な唇の感触が徐々に蘇ってくるようで、ぴりぴりと痺れの走る錯覚に思わず腰が砕けかけた。真新しい情事の痕跡。恥辱の文様。肩口には、うすく歯型までついている。 いつもなら避けるような目立つ場所に喰らいついたのは、たった一時間足らずで記憶が軽く飛ぶぐらい深く落ちたのは、服だけじゃなく操る言葉まで裸にした所為だろうか。 短く冷たい言葉で責めて、苦い劣情を飲み込ませて、爪と歯を繰り返し立ててきたのは。さっきまで俺が正気のぎりぎりで身を貪らせていたのは誰だろう。いやに胸がざわついた。ドア一枚隔てた向こうにいる筈の男の姿が、不透明になった、気がした。 肩や胸元の出るタンクトップを避け、予備で持っていた開襟のシャツを着て夕食に臨むと、途中でふと悟空が「そんなシャツ着てたっけ?」なんてこぼした。メシ時に人の服なんか気にしたことねえだろうにこういうときだけ察知するのは野生の勘か。態と生返事でおかずに手をつけていると、ちらりと八戒が目配せをしてきて、その視線にどこかほっとした。これは間違いなくお前の仕業なんだと確信が持てるから。寛大な俺様が色々許してやってたらつけあがりやがっていつか絶対仕返ししてやる覚えとけとか思っとけば取り敢えずは落ち着くから。 そして全てを察しているそいつは意味ありげに笑うでも申し訳なさそうにするでもなく、何事もなかったようにまた視線を戻して上品に飯を食らう。ついでにしっかりタートルネックで痕を隠している。総じて、ソツのない「八戒」らしい対応。それもまた俺を安心させる要素なのは否めないが、そんなお前がちょっと嫌いだ。 それから思うに、恐らく。その男は殆ど無意識下で武装している。壁を造っている。丁寧な言葉遣い、しなやかな仕種、柔和な表情、笑って誤魔化す癖、とか。そのくせ俺には時々それを取っ払ってほしそうにして、目の前に鍵を転がすような真似をする。よせばいいのに俺はその内側を見たがるわけで、そのまま根気よく懲りずに深みに嵌りこむ。それで知らない部分に初めて触れたり、さらに奥に秘密がありそうに思えたりして、時々こいつが分からなくなるんだろう。 制御装置は当分、迂闊に外せない。物理的なそれじゃなく、八戒が処世のために癖や習慣として身につけているような枷とか盾、鎧、そういうものを俺の前で全て手放させて、かぎりなくただの男にしたら、くわえて俺も馬鹿みたいに素直に甘えることやうまく愛されることができたら、どんなに底なしの深い処まで二人で落ちていけるんだろうか。 そんな現実とは程遠い、どこか被虐的でぶっ壊れた妄想を薄ぼんやりと抱えこみながら、先にあっさりと寝ついてしまった八戒の頬を軽くつねった。起きる気配はない。 夢の中に居るんじゃなければ、寝ているあいだは体裁とか自尊とか面倒なことは考えちゃいないわけで、言うなれば一番「素」に近いのは今のこの寝姿か、なんてふと思った。 ――それでなんだか急によくわからないイトオシサみたいなものが溢れだしてきて、考え込むのが馬鹿馬鹿しくなって。自分の寝床へ引き返しかけた身体はゆっくりと、低めの体温をくるんだ布団の中に吸いこまれるように滑り込んで、そのまま眠りについた。 2013-08-05 |