初めの頃は、何もかもが嫌悪と恐怖の対象だった。
 息混じりの上ずった声に、甘ったるい香水の匂い。如何わしい酒場や路地裏に漂う売女たちのそれを感じ取るたび、窶れたひとりの女の泣き顔が、壁越しにずっと聞こえていたあの啼き声が、悟浄の頭を埋め尽くした。せり上がってくる胃液を幾度も幾度もゴミ箱に吐き出した。しかし、肥溜めのような場所場所で何年も死に損なっていれば麻痺してゆくのもまた当然のこと。いつの間にか そんな空気にも馴染んで、盗みや賭けを覚えて、喧嘩を覚えて、つるむ輩ができて、酒を覚えて、女を覚えて。
 あとは、そう。小さい頃からあまり拘らず適当に拾っていた煙草の銘柄が、やっとひとつに定まった。

 ――手グセが悪ィなァ、小僧?
 相手を誤った、と思ったときには遅かった。ポケットの財布をスリ損ねた腕を有り得ない角度に捻られながら路地裏に連れ込まれ、酷く不快な「何か」の篭った嗄れ声と共に、頭を乱暴に引き寄せられ。間もなく視界の端には鋭利なナイフの切っ先が、眼前には男のジッパーが殆ど同時に突きつけられた。
 ――脅しのつもりか。別に命なんて惜しかねェっての。
 そう内心で悪態を吐きながらも、頸に殆ど接したところで銀の光がちらついた瞬間、悟浄の全身は固まってしまっていた。すると段々と抵抗する力も抜けてゆく。厄介というより、苛立つというより、自分で自分がわからなくてただ奇妙な感じがしていた。こうまでして生き長らえるほどの意地も、意志も、意味も、この身体に残っている筈がないのに。結局自分も命が惜しいのか、と悟浄は口許だけで自嘲した。
 諦観と共に悟浄は目を閉じた。人けの無い路地裏の埃っぽい空気に、下卑た男の体臭やら酒気やらが混じりあって、だらりと膝をついた体の奥まで這入り込んでくる。気色悪くていっそ呼吸を止めたくなるのに、やはりうまく止められない。きつい語調で促されるまま、悟浄の指がジッパーを手繰る。つっかえながら徐々に繋ぎ目が開かれる音――が、突然鈍い音に呑み込まれ、男の呻き声が下から響いた。
「お楽しみ、って雰囲気じゃねえなァ?」
 ここ一ヶ月ですっかり聞き慣れたその声に、悟浄が思わず目を見開く。間違える筈もなかった。
「……鷭里?」
 うつ伏せに倒れた背中に踵落としを決めた鷭里は視線だけを悟浄に向けつつ、踏みつけた男の右手から離れたナイフを蹴っ飛ばすと、逃げんぞ、とだけ告げて一気に走り出した。逃げるときだけは異常に速いその足の後を、悟浄も慌てて追う。身体にはすっかり力が戻っていた。

「バーカ。何ならソッコー噛みちぎって逃げりゃいいだろーが」
「ゲ、あんなモン死んでも噛みたくねーし」
 そう言いながら、ナイフを突きつけられて抗えなくなっていたのはどこのどいつなんだと。鷭里が問い詰めないことが、悟浄にとって救いだった。状況がどうあれ陳腐な脅しに屈する形になったのはこの上ない屈辱で、笑われたって何も言い返せないのだから。
「……つーかソレはお前、下手したら刺されるより痛ェだろ」
「はァ。んじゃお前、俺がたまたま通らなかったら大人しくしゃぶってやってたっつーのかよ?」
「そーゆーこっちゃねーって……!」
 ん? と鷭里がふざけ半分に詰るように顔を寄せて唇を弄ると、悟浄が舌打ちをしてうざったそうに振り払う。跳ね返された指をじっと見つめつつ鷭里が柄にも無く、少しだけ寂しそうに呟いた。
「……もーちっと自分を大事にしてもバチは当たんねーだろ」
「あ?」
「べっつに」
 訊き返す悟浄の声を受け流すと、かわりに鷭里は右腕でその肩を抱いて呆れたように笑った。鷭里のほうから腕を回すのは、どちらかといえば珍しかった。
「このオヒトヨシ」
「うっせ」
 悟浄が煙草を一本取り出して火を点けると、つられて鷭里もポケットの箱に手を伸ばした。
 二人で街の闇から逃げおおせた夜明け前。辿り着いた路地の壁に背を預けた鷭里は、悟浄からの貰い火で美味そうにハイライトをふかしていた。


『……浄、』


「悟浄?」
「びっ……くりした、起きたの?」
「七時前ですし……貴方こそ早起きですね、それともあれから徹夜ですか?」
「や、ちょっとな」
 吸殻をテーブルの灰皿に押し付けながら、何でもないふりで悟浄は手元の箱を弄ぶ。
 明け方、悟浄は懐かしい夢を見た。殆ど記憶の中の経験そのままの、録画の再生のような夢だ。街を転々としていた頃の、特別印象に残っていたわけでもない、強いて言うなら鷭里が妙にいつもより優しくて、いつもよりしつこかったときのこと。ところが途中で映像が急に暗転し、聞いたこともない――今際の際みたいな――掠れた鷭里の声が頭の中に響いてきて、そこで目が覚めたのだった。
「……煙草、」
「あ?」
「ずっと同じのなんですっけ」
「ん、たぶん何年かは」
「……『お揃い』の銘柄に?」
「え、」
「すみません、何でも」
 じゃ、朝ごはん一緒に食べましょうか。自分から振った話題を勝手に切り上げて気を取り直すように明るく言うと、身を屈めた八戒は悟浄の額に口づけた。態とこういう恥ずかしいことをするのは大抵、悟浄が何かやらかしたときだ。そもそも悟浄も、鷭里とのことがあって八戒の様子が輪をかけておかしい気はしていたのだが。冷蔵庫を覗き込む背中に薄ら寒いものを感じつつ、何も言わないでおくことにした。
 朝食を待ちながら明け方の声を反芻するうちに、悟浄はふと「虫のしらせ」なんて言葉に行き当たった。が、すぐに打ち消した。大切な恋人でさえ、たったひとりの肉親でさえ、気づいてやれなかったと彼は言った。そんなものが、簡単に自分を裏切れてしまうような、たった数年連れあっただけの悪友なんぞに態々気を遣ってくれるものか。
「……ははッ」
 それならば。簡単に自分を裏切れてしまうような、たった数年連れあっただけの悪友を、見捨てきれずにぼんやりと案じているのはどこのどいつだろうかと。
 そんな超のつく救いようのないオヒトヨシを、悟浄は静かに嘲笑った。

 旅に出るその日になって、長旅の間にふらっとアイツが戻ってきたらどうしよう、なんて思いが悟浄の頭を過ぎった。きっと合鍵なんてとうの昔に失くしているだろうし。
 ――ま、どうせドアぶち破って入りやがるか。
 絶対に鷭里しかやらないような乱雑な開け方だ。新しくしたばかりのドアに果たしてそれが通じるのかは、悟浄にも分からないが。

 悟浄は外から鍵をかけたのを確かめたあと、もう一度だけじっとドアを見つめた。
 帰ってきた時コレが壊れてりゃいいのに、なんてとんでもないことを密かに祈りながら。





2013-12-01