「……なぁ、お前やっぱ河岸替えしたろ?」
 俯き気味の顎を持ち上げて薄いくちびるを撫でる。今さっきまで俺に尽くしていたそれは生温かく、ぬるついて光っていて、見たこともない程やらしかった。
 どうせ無理だと思ってもとりあえず行動は起こしてみるもんだ。久しぶりに会えて機嫌の良さそうだったところにちょっと酒を飲ませて、人肌恋しいふりをしてみたら――実際戻ってすぐここに来たから、まだ馴染みの女に挨拶すらしちゃいないが――拍子抜けする程あっさりと悟浄は応じた。それだけでも、お人好しに過ぎるなんて思ったのに。欲張りな口腔の吸いつきと慣れた舌づかいは望んだレベルを遥かに超えていて、俺でさえ危うく腰が抜けるところだった。
 だいぶ前にも一度、ふざけてお互いにしたことがあった。けれど、あのとき恐々とくすぐったく触れた不慣れな舌先の面影は、もうどこにも見当たらない。
「だから違えっての」
「つーかあっちが女かと思ったら逆じゃねーの。あのお行儀よさそーなのにナニされちゃってんだか」
「鷭里」
「じゃ誰に調教されたのよ。まさかそこらの男にカラダ売ったワケじゃねーだろ?」
 手ェ出すに出せなかった処女がいつの間にかどこの馬の骨とも知れねえ男にいてこまされてすっかりクソビッチになってたのを知っちまったよーな気分なんだよ俺は。なんて続けざまに口走りそうになったが、やけに深い悟浄の溜息に遮られた。
「……よくわかんねーのよ俺にも……」
 そのケもねーくせによくわかんねーまま男に絆されるお前が一番よくわかんねーよ。とか思うとそのまま自分に跳ね返ってきて余計にイライラした。思わずからかう言葉も喉の奥でつっかえる。
 悟浄は何事もなかったようにまた椅子に座ると、グラスに残った酒を一気に飲み干した。下唇と粘膜に残るその痕跡を、喉の奥に流し込むみたいに。きっとそのまま何食わぬ顔であの男を迎えるために。
「……で、何。いつもそーゆーコトしてやってんの」
「ハァ? なんでテメェに話さなきゃなんねーんだ」
「大親友として聞く権利があんだろ」
「っかー、ウソくせー」
 なんて言いながら悟浄は新しい瓶を開けて、注ぐのも億劫と言わんばかりに飲み口を直接咥えて煽った。傍で喉が鳴って動くたび、そこに変な風に触れてみたくて指がじわじわ疼く。指先でなぞって、鎖骨まで撫でて、そのまま中へ掌ごと滑り込ませたら、どんな反応をするのかなんて。
「……ここんとこ、あんまし」
 瓶をテーブルに叩きつけながら僅かに寂しげに吐き捨てたそれが、さっきの質問の答えだと気づくまで数秒かかった。
 お前らしくもない、ぞっとするほど女じみた切なげな息を吐きながら、求めるみたいにしつこく舌の上で転がしていた間。閉じた瞼の裏で欲しがっていたのは、たぶん俺の身体じゃなくて。
「……」
 喉元から目を離すと、改めて部屋の様子が大分変わったのに気づく。明らかに増えた家電や調理器具からは悟浄に似合わない「家庭」らしさが噴き出していて、窓際に干された服はどう見てもコイツの趣味じゃない。テーブルや床にも、放っときっぱなしの食器とか脱ぎ捨てられた靴下とか、自堕落なモノは見当たらない。現在進行形で堆積する酒瓶とビール缶と煙草の吸殻以外には。
 そんな感じのことを口に出してみたら、悟浄は若干うんざり気味に答えた。
「オフクロみてぇな男でさ」
 ――あぁ、そりゃ敵わねえわな。
 その言葉に全てが詰まっているような気がして、益々卑屈な気分になった。
 そこそこ酒に強いのも厄介だ。すぐに酔えたら楽だろうに。悟浄の手元から瓶を奪って煽りながら、残りの酒を見やった。記憶をブッ飛ばすには微妙なラインだが、もうちょっと気分が良くなる程度には酔えそうな量だ。
「ん、」
 急に静かになったと思ったら、いつの間にやら赤い頭はテーブルに突っ伏していた。俺よりは弱い筈だが、こんなに早く潰れたっけか。ひどく無防備な背中が、寝息に合わせて静かに上下を始めている。
 今なら何を言おうが聞こえないか。
「愛してるぜ、悟浄」
 旋毛から髪を撫でながら囁いたら、ふいにその肩が動いて、一瞬心臓が止まるかと思った。
「……っは、やめろって」
 街で聞いた下らないニュースを話してやったときと、全く同じように。悟浄は顔を伏したまま、肩を小さく揺らして笑った。

 ――なぁ、最高に笑える冗談だろ、悟浄。


 お前なんてどうにでもなっちまえ。
 人間サマの肩持つヤツとよろしくやってるお前なんて、らしくない生き方に流れようとしてるお前なんて。
 どうしたってモノにならないのに俺を苦しめるお前なんて。

 ろくでもない生き方に見合ったろくでもない考えと共に、俺はあの時、憎らしいその名前を躊躇いもなく男に告げて、悪びれもせず逃げてきた。
 それなのにどうして今、血が足りなくて段々霞んでゆく意識のなかで、最期の力を振り絞ってまで、
「……浄、」
 哀しげな声でそいつを呼んでしまうのか。





2013-12-07