「……ふぅ」
 ぱちん、と最後の制御装置を耳朶に嵌めた。体表を覆っていた蔦はしゅるしゅると身体の中心へ巻き戻されるように消えて、体内を迸っていた滅茶苦茶なエネルギーも徐々に鎮まり、奥へと封じ込まれてゆく。
 この姿を自ら解放したのは初めてだった。普段使わないほどの力を同じ体で統御していた分、疲労も確かにあるのだけれど――相手自体がそれほど手強くはなかったせいか――倦怠感よりは寧ろ妙な高揚感のほうが強くて驚く。何だろう。アドレナリンが過剰に分泌されている感じというか。やけに鼓動が早まり、身体中を熱い血が駆け抜けるような感覚がおさまらなくて、どうにもこうにも落ち着かない。
「……八戒?」
 はっとして振り返ると、後ろ手に縛られたまま壁際の床に転がされ、呆然とこちらを見つめる悟浄の姿があった。ああそうだ、そもそもこの人を助けに来たんだった。すかさず駆け寄ってその肩を抱きあげる。
 その瞬間、どくん、と心臓が一層大きく跳ねた。
「悟、浄……」
 変に震える指が、ひとりでにその頬の傷に触れていた。視線は悟浄の頭から爪先まで自然と滑ってゆく。少し見開かれた赤い目は子供のようにあどけなく、伸びた髪はふしだらに乱れ絡まり、肌蹴た胸元から覗く鎖骨は何故かいつもよりずっと扇情的で、縄にきつく締めつけられた腰周りは言いようもなく――
「……は、何? さっさと縄ほど、」
 戸惑う声も構わず衝動のまま唇を重ねたら、口の端に滲む血と、微かな砂埃のにおいがした。おおかた床に叩きつけられでもしたのだろう。ああもう別に構わない。軽く舌舐めずりをして、耐えきれずに深く口づけた。悟浄は呆気に取られているのかひどく大人しく無抵抗に、ざらりとする舌を吸われている。
 息が保たなくて一度抜いたら、ひいた糸がぷつんと切れるのと同時に、眉間に皺を寄せた悟浄が恐る恐る目を開けた。
「っ、八戒さん?」
「ッん……は、い」
「……なんか、すっげーエロい目してますけど」
「だ、って……止まらないん、です……ごじょ、ぉ」
 仰向けになった無防備な身体にすっかり跨ると、悟浄の視線が分かりやすく下のほうに移る。恥ずかしいことに、有り余った体内の血が一気に集中してしまったようで、どうしようもなくそこが熱いのだ。
「身体が……ヘン、で……」
 息が上がり、顔が火照る。その割に不思議と苦しくはないが、理性の働きが鈍って悟浄を乱す手が止まらない。指先がその肌に吸い寄せられる。襟元からシャツをひん剥いてずり下ろし、露出した肩にはしたなく噛みついた。貪るようにそこらじゅうをいたぶる間、時折悟浄の脚がもがくものの、力が上手く入っていなくて抵抗の意味をまるで成さない。
「ばッ、こんなトコでお前……」
「そこの皆さんは暫く目覚めません、から」
「っそーゆー問題じゃ……てかまず縄解けって、さっきから、マジに、痛ェしっ……!」
「勿体無いじゃないですか」
「何言ってんのお前」
 縄の巻きついたすぐ下あたりに指を這わすと、その腰が逃げるように揺らいだ。口先では冷静なふりをして身体はすぐに堕ちてしまうのだから容易い。そういう些細な仕種に、変に強がってしかめられる顔に、なけなしの良心さえ完膚なきまでに融かされる。
「も、だめ、です、悟浄……っ」
 そのまま悟浄のシャツの裾を捲り上げ、汗に濡れた手をホックにかけた。 逸る気持ちを抑えようとひとつひとつ手順を意識しながら、履いているものを膝までずり下ろす。
 開いたその脚を持ち上げると、小さく痛がる声がした。圧迫された上半身と身体の下敷きになった両腕が窮屈で辛いのだろう。でも多少痛いままにしたほうが感じやすくなってしまうのは、彼自身より僕のほうがよく知っている。
 中途半端な状態の悟浄を手で慰みつつ、舐った中指をいきなり滑り込ませる。本当ならもっと丁寧にしてあげたいのだけれど、もう一刻も辛抱できそうにない。柄にないほど焦って抗う彼の声と、囁くように心なく謝る自分の声が、とても遠く聞こえた。
「……っかい、」
 太腿を裏から押さえつけて力をかけると、すっかり濡れた熱い身体が窮屈な悟浄の中に呑み込まれてゆく。交わったその一点に身体中の神経がさらわれてしまうようで、堪らなく心地よくて、安らいで、頭が一杯になって、
「八戒!」
「っ、」
 気づいた瞬間には、唇を奪われていた。
 腕を封じられた悟浄はそれでも軽く上半身を起こして、下から懸命に柔らかい感触を宛がってくる。我に返ってこみあげてきた恥ずかしさと、唇から懲りずに高まり続ける興奮に、一層頬が上気した。キスが巧い、というのも勿論なのだけど、それ以上に彼は雰囲気を盛り上げるのに慣れている。だから強引な行為に流されながらもこうやって僕を牽制して、やれやれといった調子で忠告するのだ。
「……すぐ挿れたがる男は嫌われんぞ?」
「ん……でも、嫌いじゃないでしょう?」
 動かしながら意地悪く訊くと、まるで肯定するように悟浄が呻いて首をかくんと揺らした。貴方にさえ嫌われなければ、それで充分なんです。我ながら呆れた理屈だ、なんてぼんやりと思いながら、身体を更に密着させ、繋がる温度に身を委ねる。角度を変えて揺らめく髪と瞳が視界に真紅の布を織り上げてゆくようで、心底美しいと思った。そんな恍惚感と共に、不穏な疑念までもふっと湧きあがる。
「……暴行を受けたんですよね」
 言いながら急に止まると、横向き気味に寝転がった身体が一度びくついた。
「もっとひどいこと、されませんでしたか」
「は?」
 悟浄が口をぽかんと開けて片眉を吊り上げる。数秒その眼をじっと見つめていると、小さな溜息と共に答えが返ってきた。
「……んなモノズキ、そうそう居るかよ」
 僕が真剣に訊いていることを承知で、貴方はそんな風に吐き捨てる。
 頭では、理性の支配下では、分かっているのだ。悟浄はそもそも顔や体つきからして立派な男性で、人並み以上に体も丈夫で腕っ節も強いのだから、そんなのは無用な心配だと。でもこうして奥深くまで侵すたびに、僕の下で溺れる肢体を見るたびに、何度だって不安になる。
 物欲しげな熱をうつした紅玉の眼を、誰にも向けないで。時折苦しげに掠れる声で煽るように、他の名前を呼ばないで。一度煮え立って引っ込みがつかなくなってしまった卑しい独占欲を、その身にぶつけるかのごとく乱暴に突き上げる。
「……っ、く……」
 激しくするほどに悟浄の力は抜けてゆき、再び背中をべったりついた床にはらはらと髪が拡がった。下を見れば張り詰めたものはすっかり反り返り、僕が揺すぶるのに合わせて剥き出しの先端が固い縄に擦れる。気持ちいいのか痛いのか、悟浄は息を荒げて堪らない様子で身を捩った。そうやって緊縛に抗って暴れるほどに、ぎち、と身体が軋むような悲鳴をあげ、火照ったその顔に苦渋が滲む。肌に縄痕が残っちゃうかも、なんて心配が頭を過ぎりつつも、そんな姿も見てみたい、なんて歪んだ思いに覆い隠される。
「ん、っ」
 限界に近い筈の自身が更に蠢いたのが分かって、息を呑んだ。感じたことのない重みに眩暈すら覚える。最早自分の身体のように思えないほどなのに、その波は蕩けた脳から狂ったように押し寄せ、どくどくと下へ流れて悟浄の中で凝固する。
「ッひぁ……あ……!」
 ついに耐えかねた悟浄が声にならない声で痛みに咽ぶ。歪む視界の中、その目頭に透明な雫が浮かびあがるのをとらえた瞬間、濁りきった意識が一気に真っ白く浄化されて、
「……はっ、かい、」
 縋るように絡みつく声に応え、溢れかえった熱が派手に弾けた。


「……怖かったですか?」
「あ? ……あーゆーのは慣れっこだって」
「彼らが、じゃなくて」
 胴にぐるりと刻まれた轍に横っ腹から口づけを落としつつ、躊躇いを呑み込んで僕は訊いた。
「僕の、あの姿が、です」
 腕を振るっただけで、鋭い爪が男達の頬や肩を次々に裂いた。軽く掴みかかって捻るだけで、その手首や足が螺子のように容易く廻った。ある者は腰を抜かして逃げ帰り、ある者はすっかり気を失った。ひょっとしたら全員の命の保障は出来なかったかもしれない。仮にそうだろうと正当防衛だし、これしか手段が無いと決心したのは自分なのだから、今更悔いるつもりなんてないけれど。
「……別に?」
 悟浄の指先が伸びてきて、嵌ったカフスを上から順に撫でた。それから温かい掌は頬へ顎へと静かに滑り、するりと呆気なく離れてしまう。
「ヤってる時のお前のがよっぽど怖ぇっつーの」
 ふざけた口調と僅かに綻んだ口許に反して、その眼は信じられないほど真剣だった。
 ――貴方にさえ嫌われなければ、それで充分なんです。
「そう、ですか」
 僕は今、泣き出しそうな情けない顔をしていないだろうか。
 鏡も持っていなかったから、確かめることは諦めた。放られていた眼鏡を久方ぶりにかけて腰を上げ、座り込んだままの悟浄に手を差し伸べる。
「立てますか?」
「よゆーよゆー」
 腰をさすりつつも、悟浄は折角貸した手も借りずさっさと立ち上がった。気の抜けたような声を洩らして、凝り固まった肩や腕を回したり振ったりしている。なんだか思いのほか元気そうだ。逆にちょっとつまらないなんて思わなくもないけれど、一先ず深く安堵した。
「いやぁほんと、バカみたいに丈夫で助かります」
「…………お前なぁ……」
 冗談のつもりじゃなかったのに、随分と深い溜息をキレ気味にお見舞いされてしまった。
 甘やかされればつけあがる。それはいつまで経っても物を出しっぱなしにしたり服を床に放っておいたりする悟浄にも言えることなのだけれど、本当は僕のほうがずっと彼の寛大さや芯の強さにつけこんでいるのだろう。ひどくしてしまった後も意地を張るようにいつも通り接してくれる悟浄のこういう態度に、僕は心から救われていた。
 よしよし、と広い背中を優しく撫でながら埃を払うと彼はしかし、えらく不気味がって腕の中でもがいた。心外だなあ。もう何もしませんってば。
 出際に死屍累々のアジトをもう一度見渡して、僕は思いのほか開き直ってさっぱりしている自分に苦笑した。護れなかった咎を背負い、僕は憎むべき妖怪になった。けれどその力があったからこそ、護ることもできた。
 人生は何という皮肉の繰り返しだろう。

 薄暗い地下から外に出ると、すっかり雨は上がっていた。かわりに雲のない夜空に堂々と鎮座した満月が、いつもよりずっと明るく、ずっと近くで僕らを見下ろしていた。でもそんなに近づいたとしたって、きっと湿っぽく四角い闇の中で起きたことのすべてを、月光は知る由もないだろう。
 僕の厭な姿もみっともない姿も全て看届けたのは、当たり前のように受け入れたのは、隣を歩くお人好したったひとりだ。


 ちなみに、これは余談だが。
 落ち着いてから己の醜態を流石に恥じた僕は、見よう見まねで身につけた気功術も用いて、心身を制御する術を模索した。おかげで妖力や血流のコントロールなんかは感覚的に出来るようになった。
 ただし、ちょっと困った副産物もないわけではない。目を閉じると唐突に蘇る、熟れきったような眼や、縛られた身体の軋る音や、汗に濡れる熱い肌の感触。五感にしっかりと記憶されてしまったその夜の激情は、今もこうして独りの寝床に遣り場のない想いを齎すのだった。





2013-12-23