「……今お帰りですか」
 気配で目が覚めて反射的に伸ばした手は、唇を狙ってぎりぎりまで近づいていたその顎にべったり貼りついた。
 ん、と辛うじて頷き返事をした悟浄の髪が、ぱらぱらと下に流れてくる。僅かに湿っていて、シャンプーの香りがした。既にしっかりとシャワーは浴びたらしい。どうりで鼻をつく香水の匂いがしないわけだ。
「寝起きの人に何しようとしてんですか」
「ナニしようとしてんの」
「昨夜はお楽しみだったんでしょう」
「ソレとコレとは別腹っつーか、さ?」
 あまり品のない言葉は遣いたくないんですが、より的確な表現が見つかりそうにないので心の中で叫びますね。ぶん殴られたいんですかこのビッチ。
「身体の表面だけ洗えばいいってもんじゃないんです」
「ちゃんとナカまで洗ったっての」
「そういう意味じゃなくてですね」
 そういう意味でもありますけど。
「歯。磨いてないでしょう」
「……は?」
「歯です」
 意外そうに悟浄が目をぱちくりさせる。今までそんな注意を受けたことがなかったからだろう。
 別段口臭が気になるわけじゃないし、酒や煙草の匂いならとっくに慣れている。というか、それも含めて悟浄の味だと思えばちょっぴりクセにさえなってしまうから困る。今キスしたくないのはもっと感覚的な理由。見知らぬ女性と絡めてきたであろう舌をそのまま吸いたくない、というだけだ。
「……んだよ、めんどくせー」
 ベッドの脇に屈んでいた悟浄がのっそり立ち上がる。そのまま素直に洗面所に向かおうとする体を、ふと腕をひいて引き止めた。
「いいことを思いついちゃったんですけど」
 そう笑いかけた瞬間、悟浄の顔からさっと血の気が引くのが分かった。

「ほら悟浄、暴れないで」
「っ、んぁー……」
「『うっかり』手が滑って喉の奥に刺さっちゃうかもしれませんよ?」
「……」
 イヤイヤして首を捩る動きがぴたりと止まったのをいいことに、更に奥の歯を目指してブラシを頬へ突っ込む。ただでさえヤニに侵食されている筈だし、やるからにはしっかり綺麗に磨いてやらねば気が済まない。
「解せぬ」と言わんばかりに怪訝な表情を浮かべつつも、悟浄は従順に口を大きく開けて、ベッドに腰掛ける僕の膝の上に頭を預けて寝そべっている。その気になればいつでも殺せるほど無防備な体勢だ。そもそも歯医者にでもかからない限り、いい大人が他人に口内を弄くられることなんてまずない。ましてや悟浄なら、幼いころ親に歯を磨かれた経験もないだろう。当然初めは渋られたが、大人しくしてたらお望みは聞いてあげますよ、なんて言ってみたら、案外すんなりと身を委ねてきたのだ。ほんと欲望に忠実なんだから。
 磨いていくうちに吐き出せない歯磨き粉の泡は徐々に溢れて、顔がちょっと横に傾いた拍子に唇の端から一筋こぼれる。顎を押さえる左の指で拭いとってやると、まだか、と問いたげな視線がちらりと僕を見上げた。ある程度は磨き終わったけれど、これで満足したわけじゃない。もっと、口の中ぜんぶで反省してもらわないことには。
 ブラシの刷毛を舌の裏側に持っていくと、悟浄の目が一瞬驚いたように見開かれた。そのまま前後にブラシを動かして舌を持ち上げるようにすると、眉根が困惑の形に寄せられる。そのまま頬の内側や上顎の裏も円を描くようになぞり、上と下の歯茎を端から端まで辿る。たまに裏返して向きを変えながら、上っ面にすれすれで触れて、あちこちの粘膜を無機質な棒で蹂躙してゆく。お預けされたその口の中が、熱を欲しがる身体中が、すっかり焦れきっているのを承知で。
「っん、んー……」
 事を察してきた悟浄の頬は少しずつ紅潮し、だんだんと耐え切れないと言う風に瞼が下りていった。下の歯茎の裏側を緩慢に撫でると悶えるように身じろぎまでし始めて、とん、と手の甲で力なく膝をたたく。何が言いたいんだろう。「やめろ」なのか「もっと」なのか。勝手に後者と受け取らせていただいて、また柔らかい舌をつかまえて責める。裏を親指の腹で押さえ、表からプラスチックの背側を押しつけてくにくにと弄ってやると「んぁ」とか「ふぁ」とか鼻から抜けるような声が水音に混じって洩れた。
 そのまま奥まで撫でていってとうとう喉に触れると、悟浄が咳き込んで眼を僅かに潤ませた。苦しそうに息を荒げて顔をしかめたまま、また一度喉を大きく鳴らす。ああ、この反応もよく知っているっけ。際どい連想に背筋が一瞬ぞくりとした。
 そうやって何度も舌や歯茎を弄ぶうちに、抵抗する力がどんどん弱くなってくる。静かな薄暗い部屋の中、唾液の掻き混ぜられる音と、殆ど吐息のような意味を成さない声音が絡み合う。どうも色々と諦めたらしい。このまま口だけで最後までいってくれたら楽だなあ、なんて、やけに熱っぽい頬を冷めた目で見下ろす自分は非情だろうか。
「ひぁ……っ!」
 急に今までより明瞭な声が上がって、横たわる全身がびくんと痙攣した。とうとう反応しそうになった身体を咄嗟に制したのだろう。額に汗が浮かび、震えるくちびるが脱力して閉じかけている。別に我慢しなくたっていいのに。なんて思いつつまた中で動かそうとすると、膝に置かれていた手が手首にゆるりと縋りついた。
「……はっ、はひ……」
 白く汚れた口許は真ん中に棒を突き立てられたまま、舌っ足らずに名を紡ぐ。艶めく紅い眼はひたむきに懇願の視線を投げかける。
 柄にもなく素直に音を上げる姿が可愛いなんて思ってあげない。ついつい何もかも許してしまいたい気持ちになんてならない。――けれど、こんなにも情けない彼の姿を知るのは確実に僕だけだろうな、と。そんな優越感を得られれば多少は気も晴れるというもので。
 まあ、これぐらいにしといてあげないこともないかな。
 長く糸をひきながら柄まで濡れそぼったものを抜きとると、悟浄が呆けきった顔で数度瞬きをした。頭を軽く持ち上げて、ぽかんと開いたままの口にコップの水を流し込む。慌てて悟浄は手で口許を押さえつつ口をゆすいで、そのまま勢いで飲み込んでしまった。今更だけど歯磨き粉って飲んで大丈夫なんだっけ。まあ別に害はないか。溢れた水を口の端から垂らしながら悟浄は大袈裟に噎せかえり、はぁはぁ言いながら恨めしげに僕を見上げてきた。
「……ほんっっっとーにイイ性格してんなお前」
「貴方こそ随分下半身がだらしないんじゃないですか」
「は?」
 あぁ、言い返すついでに何を口走ってるんだ僕は。これじゃ嫉妬してるみたいでみっともない。しかし悟浄は開き直るでも気まずそうに目を逸らすでもなく、心当たりが全くない、と言いたげに当惑した顔で頬を掻いていた。
「……だってお楽しみだったんでしょう?」
「や、まぁ綺麗なねーちゃんはいっぱい居たけど。せいぜい大勢で飲んだくれてただけっつーか」
「は?」
「ここんとこ外で誰とも寝てねーし俺」
「…………は、」
 何ですかそれ。僕を宥める為にしたって不自然すぎますよ。ていうかそんな嘘ついたところで貴方に得とかありませんし。しかもなんで全然目が泳がないんですか。珍しく子供みたいな澄んだ瞳しちゃってちょっと気味悪いんですけど。
「どうして、」
 殆ど無意識に訊き返してしまってから、慌てて口を噤んだ。すると向き合った身体から腕が伸びてきて背中に回り、ぽすんと右肩に頭が預けられる。
「……言わせんな」
 耳元で響いたぶっきらぼうな声に、抱きしめられた身体がじわじわと甘ったるく痺れた。
 ああもう、底なしのバカじゃないのかこの人は。なんで無実なのにわざわざ紛らわしい言動をするんですか。なんで勘違いで突っ走った僕にもっと文句とか言わないんですか。なんでこっちが小恥ずかしくなってくるほど可愛い態度をとるんですか。バカバカと悟浄を責め立てながら、己の内心はもっとバカみたいに舞い上がっている。
 それと同時にちょっぴりの罪悪感も湧きあがってきた。肩に凭れた真っ赤な顔を正面まで引き寄せて、お望みのものをそっと宛がう。
 爽やかな歯磨き粉の香りの中に少しだけ、苦いような辛いような、いつもの煙草の匂いが滲んだ。能動的に欲しがってくる舌がなんだか熱い。応えて僕も、時間をかけて征服した口腔を改めて味わう。つるつるした歯の表面が心地いい。弄りまわされて感じやすくなってしまったのか、歯肉に舌を這わすたびに微かに喉が鳴く。悟浄には悪いがまさに一挙両得というやつだ。これなら今後も毎日丁寧に磨いて差し上げたいぐらいだけれど、流石に嫌がられるだろうか。
「ん……な、はっかい」
 酸欠で軽く明滅する視界の中、熱を帯びたしなやかな身体が吸い寄せられるように腰元に乗っかってくる。肩で息をするその合間に、限界、と遠まわしに強請る濡れた声。カーテンの向こうで昇りだした太陽の気配にも構わず、僕は再びベッドに背中を預けた。
 忙しなく動き出す世間様に背を向け、ミントの匂いに包まれてとろけてゆく。こんな自堕落な朝も、たまには許されるでしょう?





2014-02-03