「なぁ」
 扉を開けるなり、玄関先で立ち止まって。僅かにお酒のにおいを帯びた彼が徐に口をひらいた。
「お前を、さ、そーゆーイミで。俺が」
 ふらりと、よろめいた体が軽く凭れかかる。肌蹴た上衣からすべらかな鎖骨が覗いて、つい視線がさらわれてしまう。
「スキだとかほざいたらさ、どーするよ」
「……はぁ、」
 現在時刻は4月1日の、たぶん23時50分ごろ。
「実は僕もなんです、と言ったらどうします?」
 無防備な背中に腕を回して指で背骨を辿ると、ぴくりと微かに体が揺れた。据わった紅い瞳が、玄関の段差の分いつもより低いところから見上げてくる。
「へー、そーなの?」
「ええ、食べちゃいたいくらいに可愛いです」
 微笑んで言ってのけると悟浄が噴き出し、そのまま咳き込んだ。 俯き気味に肩を震わせて、ちょっと笑っているらしい。こちらとしては笑えないのだけれど。
 ひとしきり笑うと悟浄は身を剥がし、僕の肩を支えにしたまま靴を脱いだ。こちらに足を踏み入れると同時に何か言いかけたその口を、反射的に手で覆って塞ぐ。中指が柔らかい感触にうずまった。
 ああ、とびきり性質が悪いのはこのくちびるか。
 触れれば何ひとつ考えられなくなって、噛みつくように求めてしまう。容易くひとの理性を失わせるくすんだ赤。
「……まあそういうことですから、食べちゃいましょうか」
 眼を見開いたその顔から掌を退けて、剥き出しになった唇を唇で塞ぐ。両の手を首元に這わせて、つかまえて。何も言わせないように、息さえつかせないように、口腔にずっぷりと栓をする。時折苦しげに喉から漏れる微かな音が、耳に心地よく染み込んでくる。吸い尽くして舌を抜いた後、濡れた唇から意味を成す言葉が出てくるまで少しの間があった。
「……はっ、かい、やりす……ッぐぁ、」
 押し倒すというよりは突き落とすように、体躯を玄関に叩きつける。ドアを背に尻餅をついた悟浄に覆い被さって、半開きのそれに今度は親指を押し込んで食ませた。
「黙っててください」
 なんだか妙に切なそうな眼をしたかと思うと、肩で息をしながら悟浄は静かに頷いた。狼狽えるその姿が堪らなく愛おしいけれど、ひどく哀しくもある。
 やりすぎ、って言いましたか。ええ、確かに四月馬鹿にしたって何にしたって、仕掛けられたら大人げなく本気を出すタイプですよ僕は。でも、そんなのじゃないんです。ただ我儘に貴方を欲しているだけなんです。
 真実を言える筈もなく、何より先に体が動く。上衣を肩までずり下ろして裸身に手を滑らせると、汗ばんだ肌がぴったりと吸いついてきた。ああ、ずっとこうしてくっついていたい。深いところまで沈みたい。
 けれど、そろそろ時間がない。
 ホックに手をかけた瞬間、視界が急に暗転した。


 目が覚めれば、何もかも分かりきった朝が訪れる。
 そして前の夜に放ち損ねた熱が、身体の奥底に凝ってじんじんと疼く。
「……ああ、もう」
 ――ずっと2日にならなければいいのに。
 最初にスキと言われた時そんなことを願ったのだったか、確か。もし日付が変わってから「嘘でした」なんて突きつけられれば、到底平気ではいられないと思ったから。
 次の朝の既視感は気のせいかと思ったけれど、次もその次も続けば認めるしかない。どうも、僕が「4月2日」に進めず、もう10回ほど「4月1日」を繰り返しているらしいことを。
 熱が鎮まりゆくのを待って、布団から這い出る。窓から見える空は相変わらずここ一番の快晴で、相変わらず窓際の光の中でジープが円を描いて翔んでいた。
 罪悪感に立ち止まりそうになりつつも、やはり足は一つの部屋へと向かう。扉を開けると小さく鼾をかきながら、それなのに死んだように眠りこむひとの姿が見えた。
 僕の体は、日の終わりごとに何度もこのひとを抱きしめた。乱暴に唇を奪った。それ以上のことをしようとした。堅い胸や骨ばった背中の感触を、指先がよく憶えている。このまま開き直ってエスカレートし続ければ、悠長な会話もキスもすっ飛ばしてめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。
 けれど横たわる4月1日の朝の彼は、そんなことを知る由もなく。昼過ぎまで寝こけて、ろくに喋らず出かけて行って、酒場あたりで誰かに騙されてエイプリルフールというものを思い出すのだろう、多分。そして偶然かわざとか日付が変わる直前にすごすご帰ってきて、僕にとって世界一残酷な嘘を吐く。
「……嘘、なんですよね」
 どこか諦めきれない気持ちが、思わず零れ落ちる。
 酔っているとは言え彼がそんな下らない嘘を吐くとはあまり思えない。けれど、触れたときや口づけた時の反応を見ている限り、心底好いてくれているともまた思えない。
 今すぐに起こして訊けば、ほんとうのことも分かるだろうか。
「……」
 上下する胸に触れかけた指を、結局そっと引っ込めた。

 もう、なんにも動かなくていい。何がほんとうかなんて、分からなくたって構わない。
 ただ「嘘」を口実に、一日の終わりのほんの少しだけ、後先なんて考えず貴方を独り占めできるなら。
 永遠に春の檻に閉じ込められる、臆病な愚者のままでいたい。





2014-04-01 (+10)