「驚いたぁ。貴方もインフルエンザなんてかかるんですね」
「…………お前俺を何だと思ってんの?」
 39度を示した水銀体温計を軽く振り、ケースにしまった。単に体調不良というなら宿酔で頭痛に唸る情けない姿なんか何度も見かけているのだが、高熱でダウンなんて初めてだ。ベッドに寝かしつけられた当の本人も、やはり滅多にこんな熱は出さないのだろう、1週間は外出するなと医者に言われて不服そうだ。質素なお粥を作ってここに持ってくる間にも、部屋からは咳やくしゃみや唸り声や、「喫いてえ」とか「呑みてえ」とか論外なぼやきが漏れ聞こえていた。
「まあ、食欲があるんなら心配ありませんよ。ほら、あーん」
「……何ソレ」
「見ての通り鶏粥です」
「じゃなくてさ」
「ついさっき頭いてー起き上がれねーって文句垂れてたのはどちら様ですか。はい、あーん」
 語尾にハートでもつきそうな調子で繰り返すと悟浄は眉間に皺を寄せつつ、横向き気味になって素直に口を開けた。
 軽く冷ましたお粥を近づけると、はふ、と唇がレンゲに食らいつく。音を立てながら啜って、細切れの具を噛んで、ゆっくりと喉を鳴らして飲み込む。こんなに、僕の作った料理を食べる姿を――僕によって、悟浄の中身ができてゆくその様を――じっくりと観たのも、初めてだと思う。
 手からものを食べてくれる姿というのは、こんなにも愛くるしく不思議に色っぽいものなのだろうか。
「……どした?」
「あ、」
 ふと、濡れた唇に奪われた意識が引き戻された。
 上気した頬の上で、熱に揺れる両の瞳が訝しげに眇められる。疚しい想いを悟られそうで居た堪れず、慌てて次の分を掬った。ひとくち、またひとくち、と。小さな土鍋の中身が徐々に彼の中へ溶け込んでゆくのを見ていると、ちょっとした恍惚感さえ覚えてしまう。
 正直、初めは厄介だなあぐらいにしか思っていなかった。身体が弱ったところで別段しおらしくもならないし、寧ろ普段より機嫌が悪いし。けれど、こんな様子が見られるのなら世話を焼くのも悪くない――もう1週間ほど延長で寝込んでいてもらっても構わないぐらいだ。急いで治すことなんかない。トレーに載せていた錠剤の袋を密かに悟浄の視界の外へ追いやって、鍋の底から掻き集めた最後の一杯を口元に捧げて。喉仏が小さく動くのを見るや否や、すぐに僕は切り出した。
「一人のあいだはどうしてたんですか」
「あ? ……いや、あんま寝込まねえし……まあウイダーとか飲んでひたっすら寝てたんでねーの」
「あぁ、そんなとこかなぁと思いました」
 答えつつ買ってきた冷えピタを袋から取り出し、顔にへばりついた長い髪を指先で横に払いのける。
 ひょっとしたら、この人は今の今までお粥の味なんて知らなかったんじゃなかろうか。お粥だけじゃない。酒場には置いていないような、「母親」も一晩のお相手も作ってくれることなんてなかったであろう、素朴な煮物や汁物なんかも、僕の作ったものこそが「初めて」で「すべて」なのかもしれない。
「拾っておいて正解だったでしょう?」
「……ほんっと厚かましくなったなお前」
 呆れつつも悟浄は否定しない。言い返す気力がなかったのか、はたまた即興の病人食が思いの外お気に召したのか。
 額にシートを貼りつけると、はぁ、と安心したような息が微かに漏れた。そのまま下へと滑らせた掌を、赤らんだ頬にぴったりと押しつけてみる。
「は、つめてぇ」
 こちらを見上げて満更でもなさそうに、くすぐったそうな笑みと共に、呟く声。ひた、と上に重ねられた掌も、そのまま誘うように導かれた汗の滲む首筋も、どんな情事の最中より烈しく熱を帯びている。その内側において、細胞レベルで、確かに病気と闘っている証として。ああ、そういえば。
「僕がつくったようなものですね、貴方の身体」
「…………は?」
 数秒の間を開けて訝しげな低い声が漏れた。ヘンな意味にとられたのかもしれない。ところで手が項あたりに持っていかれたままなのがちょっとドキドキしちゃうんで離してほしいんですけど。
「いえね、ところによって周期は違うんですけど、3ヵ月くらいで多くの細胞が入れ替わるんですって。僕のご飯を食べてくれるようになって、丁度それぐらいじゃないですか?」
「なんでイキナリそんな壮大な話になんのよ」
「……だって。少なからず僕の影響を受けて生まれた細胞が、今も悟浄を必死に守ろうとしてるんですよ?」
 なんだか、やけに愛おしいじゃないですか。
 そう言うと悟浄は改めて一瞬きょとんとしてから、変なヤツ、と、ひどく柔らかく笑った。しかし間もなく皮肉っぽい笑みへ切り替えて、負けじと気丈に言い返してくる。
「でも夜は出かけてんだろーが。そう簡単に全身お前のモンにはなってやんねーぜ?」
「言ったって、殆どお酒と肴みたいなものでしょう。……あぁ、それと完治するまで毎食作りますし外出も煙草も当分禁止ですから」
 いつの間にかほどかれていた指で焦らすように温い唇をなぞって、言い含めるように、ゆっくりと。
「頭のてっぺんから爪先まで、ぜんぶ僕のものです」
「……口説いてんの?」
「今更じゃないですか」
 はあー、と悟浄が額を抑えてわざとらしく溜息を吐いた。発熱とは違うもので頬がいっそう紅潮したように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「……変な汗出てきたわお前のせいで」
「なんなら体も拭いてあげましょうか」
「いらねーっての。寝て治すからそろそろ薬よこせ」
「……あれぇ、飲みませんでしたっけ?」
 しらじらしー、と悟浄が半目で毒づいた。話題を逸らしているうちに忘れると思っていたのだけれど、そんな企みはすべてお見通しらしい。敵わないなあ。大人しく処方された錠剤を掌に取り出し――自らの唇のあいだに、浅く咥えた。
「ッ、」
 無防備に投げ出された身体の、しまりのない口にそれを押し込むのは容易かった。いったん離した唇にすかさずペットボトルの水を含ませ、また口伝いに流し込む。ごくんと飲み込む音が聞こえた後、高い温度と裏腹に脱力しきった息が手首に触れた。
「……伝染んぞ、バカ」
「予防接種は済ませてますから。いくら触っても平気です」
 そう告げて微笑みかけると本日何度目かの怪訝な顔をした悟浄は身を竦め、ずり落ちかけた布団を被り直して明らかな警戒態勢に入ってしまった。
「おちおち寝てらんねーのか俺は」
「無茶なことはしませんってば」
 だって、ふらふらの貴方をいたぶったって何の甲斐もない。今堪らなく欲しているのは上っ面じゃなく貴方の内側の、もっと深いところなのだ。
 ねえ悟浄、気づいてますか。貴方が余計なものを入れず毎食僕の作るものを食べてくれたなら、二人の身体の中身はほんのひととき、ほとんど一緒になるということに。それが、ある意味キスより何倍も濃密な接触だとも言えることに。
 そしてそんな接触に至上の悦びを見出してしまう僕という一個体が、とっくにぜんぶ貴方のものだということに。

 寝息を立て始めた愛しき身体に背を向け、つとめて静かに部屋を出た。
 久しぶりに二人でとる夕飯をどんなものにしようかと、早くも心を躍らせながら。





2014-04-25