「…………運がいいなアンタ」 やり直せるのはその場面から。とうに罪を犯してしまった私は何ひとつ救えず、何ひとつ変えられない。 それならば私は何のために、この夢を繰り返しているのか。 闇の中に意識だけが浮かんでいる。醒めた頭で見続ける奇妙な夢、その始まりに還されるまでの休憩時間のようなものらしい。 倒れた男が銃を取り落とすところから始まるその夢は、あの「飼育室」の記憶の再現だ。自責の念が見せた光景なのだろうと初めは思っていた。しかし数えて三度、敬礼と共に昏い海へ堕ちたところで違和感を覚えた。これは何かが変わるまで、未練が消えるまで、無限に繰り返される間違い探しなのではないかと。 そうだとすると分からないのは答えの在処、その未練の正体だ。私の最大の後悔は、罪は、天界の暗部から目を背け続けたこと。彼らの闘いが始まってしまってからでは、どうしようもないというのに―― 「、」 ぶつり、と何かが断線する音。繰り返すごとに一歩ずつ前進する思考はしかし、こうしてどこかで断ち切られてしまう。やがて一面の闇を一筋の光が穿ち、瞬く間に拡散し、白い闇のように意識を覆い隠すのだ。そうして次に目覚めるのは血腥い檻の中だと、厭になるほど知っていた。 「…………運がいいなアンタ」 ひらけてゆく視界の中、こちらの向けた刃の先で、弾切れだ、と。銃を取り落とした捲簾大将が口の端を皮肉げに――見慣れたかたちに歪ませた。 その瞬間、かちりと歯車が噛み合うような音がした。闇の中では触れられなかった想いに指がかかる。それは激しい電流となって末端の神経まで走り抜け、目覚めたばかりの身体を強引に叩き起こした。 「……くッ!」 咄嗟に刀を引き、鞘に収める。そう、手放した筈の鞘が腰に括りつけられていたことが、僅かな差異であり突破口だ。そのまま空いた手で倒れた身体を抱き上げ、前方へと跳梁する。どこからそのような力が湧いたのだろう。殆ど何の思考もなしに動いた身体はしかし、背後で身を起こそうとしていた獣から大きく距離をつけ、血飛沫に濡れた扉の前に着地した。 「っな……!?」 腕の中で瞠目する捲簾をよそに、足で扉を押し開けて外へと躍り出る。幸いと言うべきか。秘匿された最深部、無闇に近づけば生還など望むべくもない飼育室には兵が送られる筈もなく、薄暗い廊下に人気はない。振り返る間もなく背で乱暴に扉を閉めると、途端に腕の中の重さが蘇り、床にずるりとへたり込んだ。 「……」 口許は引き結ばれたまま、何故、と問いたげな視線がこちらを見上げる。膝の上に預けられた身体には、ろくに力など入っていない。止め処なく溢れる血は顔を、胸を、指先を、黒く艶やかな軍服を染め抜いてゆく。それでもなお深い紫の眼は、生命の煌めきに燃えている。それはどこまでも美しく、しかしあまりに痛ましい。きっと、だからこそ私は。 静寂の中に響く声は、いつかの己の微かな無念。責務と矜持に塗り潰された、どこにも行けぬ虚無の心。 『――上官として』 やり直せるのはその場面から。とうに罪を犯してしまった私は何ひとつ救えず、何ひとつ変えられない。 それならば私は何のために、と考えると。もはや答えはたったひとつしか浮かばないのだ。 『唯一してやれるのが、こんな事だけだとはな――』 慎重にその身を抱き起こし、右側の壁に背を預けさせた。動かすたびにあちらこちらから血が滲み、喉からひゅうひゅうと息が漏れる。とうに限界を超えてなお、彼の鼓動は続いている。それを眩しく思いながらも、まるでその意に反するように、左の腰に差した柄へと再び手をかけた。 すべてはとうに手遅れだと、初めから知っている。たったひとつの光に全てを賭けた彼らが、恐れなかったその運命を知っている。何よりこの目で看届けた、凄絶な彼の最期を知っている。それでいて諦めきれなかったのは世界に遺された結果ではなく、私だけが知る結末だ。 投げ出された二本の脚を跨ぎ、膝をついて見下ろすように男と向かい合う。そして抜いた刀を右脇に構え、切っ先をその胸の中心に突きつけた瞬間。変わった筈の状況で変わっていないその表情に、口を衝いたのはやはり変わらない問いかけだった。 「……なぜ笑う」 「そう決めてたからだ」 揺るがぬ確信に満ちたその顔を、よく知っている。あの日から何度も、痛いほどに深く深く、この胸に刻み込まれている。きっと、だからこそ私は、この手で―― 突然響いた鈍い物音に、思わず身を竦ませる。しかし鉄板を殴りつけるようなその音の発信源は、明らかに扉から離れていた。辛うじて起き上がった獣は、獲物がどこへ逃げたのか把握できていないらしい。 遠く孤独を訴えるような唸り声は、弱りきった男の耳には届いていないだろう。最期の力で痛みに抗い、哀しいほどに生きたいと欲した生命は、じきに誰にも看取られることなく息絶える。私は「彼」に与えられた救いを奪い去り、目の前の男の献身をも無に帰そうとしているのだ。 それを承知の上でなお、この夢の中では譲れない。噛み砕かれ磨り潰される痛みを知る前に、かたちを失う前に、自らの手で逝かせることもできたと。たとえ身勝手でも「唯一してやれること」を成し遂げたかったと、その未練を断ち切れなかったのだ。 私が、殺してしまいたかった。 誰にも渡したくなどなかった。 言い換えてしまえば、なんと醜い感情か。今になって呆れてしまうが、既に引き下がる余地などない。覚悟を決め、一度静かに息を吸った瞬間――ふと何かに耐えかねたように、あぁ、と血の伝う唇の間から低い声が漏れ出した。 哀しい目だな、と男は呟いた。 それはそうだ、と叫びたかった。しかし、感情の問題ではない、と答えた。 真面目なヤツ、と男は呆れた。 だから誤った、と悔やんでいた。しかし、あいにくと性分だ、と強がった。 じゃあ貫けよ、と男は煽った。 言われずとも、と笑いたかった。しかし、黙って柄を握る手に力を籠めた。 指先が震えていないのはありがたいが、自身の冷徹さを突きつけられるようで厭になる。それでも彼は私を責めることもなければ、己を悔いることもない。ただ終わりを悟って穏やかに、眠りに落ちるように、吊り気味の両目を細めてみせた。 「……じゃあな」 持ち上がる筈もない右腕が、微かに宙に浮き震えている。それがこちらに伸ばされようとしているのだと分かって、息が詰まってしまう。その想いだけでも満ち足りすぎていて。骨ばった大きな掌が、確かにこの頬に触れていると思えたのだ。 「……ああ。赦されるのであれば、私も」 また、あとで。 ぱたりと地に堕ちる掌を見届け、弱りゆく鼓動をまっすぐに貫く寸前。それだけが耐え切れず本心から零れ落ちた、最初で最後の言葉だった。 遺体を外套にくるみ、混乱に乗じて運び出すことは難しくなかった。人知れず散華を始めた桜の樹の下に葬ることを決めたのは、このうえなく彼に似合うと感じたからだ。 単純に埋めてしまうだけでは、何かの拍子に掘り返されかねない。本来ならば荼毘に付すところだが、表向き「死」を認めていない天界に火葬用の設備は存在しない。ふと、下界における西洋の竜には火炎を操るものもある、という天蓬元帥の話を思い出す。私もそうであれば話が早かったのだが、属するのはあくまで水だ。神やそれに連なるものにも、儘ならないことなどいくらでもあるのだ。とりわけ肝心な時に限って。 並び立つ樹の群の端まで歩き着き、その根元に腰を下ろす。花を散らす風の音だけが鳴るその場所で、最後に一度、桜色の外套の端を捲り上げた。黄色みの強かった肌も淡く赤みを帯びていた唇も、今やすっかりその彩りを失っている。しかし瞼を閉じたその表情はどこまでも安らかで、気高く満足げでさえあった。 どこからか舞い落ちた花びらが、うす紫の唇に触れる。 どこからか零れ落ちたしずくが、蒼白い頬に跡を残す。 それをそっと包み隠すように、布をもう一度かけ直す。 どのように彼を弔ったところで、私の罪が消えるわけではない。寧ろ、死体は既に食い荒らされ回収は困難であったと――殉ずると決めた天界に、新たな嘘をつくことになる。ならばやはり不徳への、罪への代償は支払わなければ。脚を失くす理由が消えてしまったならば、内臓から壊されても構わない。報告を終えた後であれば、声を発する喉も音を聞く耳も必要ない。ただ筆を持つ腕とすべてを看届ける目だけは、どうか最期の責務のために。 腹を括るのに時間はかからなかった。瞼を閉じて、横たえた身体の背中と膝とを支える腕に力を籠める。術者の真似事をできる素養など本来ないのだが、文字通りに身を削れば多少の無茶は通るだろう。 触れた手を肉体に「接続」し、隔てる布地と皮膚を貫いて内部へと道をひらく。身体中の力を一点に収斂し、あちらがわへと逃がしてゆく。そうして熱の受け渡しをする掌は、次第に焦がされそうなほどの熱をもつ。最悪左右どちらかが無事なら構わないが、あまり負担を集中させるわけにもいかない。気を生み出し注ぎ込むまでの道筋を意識し、調整を試みる。内へ、奥へと熱と痛みを分散させれば、臓腑が破れて血を噴き出す。耳を震わす風の音が遠ざかる。 ――本当に痛いのは、痛いとすら言えないことだと。そう憐れんだ彼自身が痛いと言わなかったことを私はどこかで受け止めきれず、このような夢を見たのだろう。しかし今ならば身をもって分かる。信じるものを守るために負う傷を、美しいものを想いながら流す血を、心の底から誇りに思う。そのようなこともあるのだと。 水の流れを想像しながら、己の中に溜め込まれた気を着々とあちらに染み込ませてゆく。繋がった身体は透き通った水に満ち、這入り込んだ指先をやわらかく包み込む。私の骨が砕けるほどに、彼の血肉は溶けてゆく。既に布の中の身体は外郭だけを残し、うっすらと透けていることだろう。うまく末端まで行き渡らせればそっと繋がりを切断し、最後に一言、あちらに満ちた要素へと命を告げるのみ。 ただ、そのものに還れと。 ぱちん、と水風船の弾けるような音が響く。 同時に強い風が吹き抜け、手にした外套がふわりと捲れ上がった。 そこにあった筈の質量は既にない。かわりに中に詰め込まれていた無数の光の粒が、一斉に風に乗って舞い上がる。 前だけを向いて駆け抜けた最期に、微笑んで燃え堕ちた星の欠片。砕けたそれは散りゆく花びらと共に風に舞い、見上げた空を眩いほどに埋め尽くす。黄金色の霧雨となり、灼けた掌に、冷えた頬に、やさしく降り注ぐ。 それがあまりに美しくて、あたたかくて、今にも倒れそうな身体に火が灯る。たとえ私の咎が消えずとも、何を変えられたわけでなくとも、すべてが醒めれば消える夢であろうとも。この光を見られてよかったと、心からそう思う。 わななく足でしかと土を踏み、喉の奥から滲む血を呑み込んで、私は――またあとで、と搾り出すように呟いた。 生きたいと望む生命に捧げられたその身を、私だけは永久に憶えている。 ならば此度もこうして土に還り、いつか再び咲く花の糧とならんことを。 ****** 天界のどこかで、ひそやかに語り継がれる物語がある。 とこしえに咲く万年桜、そのうちには一本だけ散華を知る樹があるのだと。その樹はしかし満開を迎えれば、燃えるように力強く他のどの樹より華やかな花をつけるのだと。 その樹の変異は、とある神様の力によるものとされている。呪いに身を蝕まれながら生き永らえ、一心に取り組んでいた仕事を終えたその神様は、あるとき覚束ない足取りでふらりと外へ歩いて行った。そしてくだんの桜の樹に辿り着き、そのまま寄り添うように息を引き取ったのだという。 根元の土に、あるいは水に、彼を引き寄せる何かが眠っていたとも言われている。しかし花を愛でる心を持つものであればこそ、掘り返して真偽を確かめようなどという無粋な真似はしない。故に伝説は伝説のまま、ただこのように語られる。 万年桜の片隅に佇む、一本の桜の樹。 とある神様に心から愛されたその花は、散りゆく運命を誇りながら。 想いに応えるように何度でも、ひときわ美しく咲いてみせるのだと。 2016-12-31 |