◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 白磁そのものといった色、微かにぬめりを帯びた表面、それを覆う薄い鱗。
 あたかも白い蛇のようだと、男はただ苦笑した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 意識して気を鎮めるように、靴音を大きく響かせて廊下を進んでゆく。
 その日、目が覚めた瞬間から西海竜王敖潤の機嫌は悪かった。 趣味の悪い夢を見たのだ。
 監禁中の捲簾大将に、性的暴行を加える――加えさせられる、そんな理屈の通らない夢。
 あんなことを聞いてしまったせいだろう。原因はすぐに思い当たった。仕事を終えて自室へと向かう途中、僅かに開いた扉の向こうから、偶然聞こえた数人の男の話し声。

『ありゃ手強いわ。殴っても蹴ってもロクに鳴かねえ』
『ヌルいんだって。下も脱がせてさぁ、あの鞭ケツにでも突っ込みゃよかったのに』
『げ、だから俺ソッチの趣味はねえって……つーかさ、あの捲簾大将って』
 その名が話題に上った瞬間、敖潤は苦虫を噛み潰したような顔をした。先刻ちょうど懲罰房に送られた、西方軍随一の問題児。しかし、耳を疑ったのはその続きだ。
『天蓬元帥ってのとデキてるって聞いたんだけど』
 衝撃に思わず歩みが止まる。『マジで?』と疑わしげに尋ねる別の声。敖潤にとっても寝耳に水だった。下らぬ噂と切り捨ててしまえば、それまでの話ではあるが。
『上官殿のお気に入りってか? 掘られてもヨがっちゃったりして』
『つーかソレお偉いさんは知ってんの? ホラ、あの生っ白い不気味なヤツとか』
『や、意外とアレも咥え込まれてんのかもよ?』
『うっわ、竜王サマのイチモツとかグロそー』
「……」
 揃って下品に笑う声に、溜息が洩れる。
 揶揄の対象となるその身体が――鱗の浮いた白い肌や紅い眼球や、隠しきれない鋭利な角や耳が――全く気にならないと言えば嘘になる。両性具有たる観世音菩薩のような存在こそあれど、天界人の多くは一見して下界人と変わらない。即ち敖潤を含む竜神たちは「異形」である。建前上は敬うべき存在とされているが、差別の目を向ける者も少なからずいる。もっとも、今更それしきのことで嘆きもしないが。
 そして口ぶりから察するに、連中は少なくとも西方軍の軍人ではない。懲罰を口実に憂さ晴らしをしているという看守、か。感心はしないが上に報告するほどの輩でもないだろう。止まっていた足を再び踏み出し、敖潤は静かにその場を立ち去った。

 そう、それから夢を見た。
 自室へ戻り、することもなく床につき、永い永い夢を見た。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ご立派なモン持ってんなァ、旦那?」
 下世話な軽口を叩きつつ、男の目は全く笑っていない。
「体罰の一環だそうだ」
 退屈そうに吐き捨てる声は、確かに敖潤自身のもので。しかし己の喉からではなく、どこか遠くから鳴る音のように感ぜられた。
 ふぅん、と興味なさげにひとつ息を吐き出すと、捲簾は首を伸ばし、自ら蛇と形容した「それ」に唇を寄せた。
「……真っ白ってのは、いただけねえけど」
 どうということもない、屈辱など感じてやらない。そう言わんばかりの、どこまでも強気な態度と声音。それは本心か、ただの虚勢か。考える暇さえ与えぬように、薄く肉の色の透けた先端へと舌が触れる。
 生温かい――というより敖潤にとっては熱いほどの、唾液を湛えたざらつく舌面。それが突端を撫で回し、時折、小さな孔に舌先を遊ばせる。そうして濡らした部分を優しく食むように、柔らかなくちびるが宛がわれる。
「……っ」
 冷え切っていた敖潤の身体から、思わずぬるい吐息が漏れた。指の一本も使えぬ状況で、捲簾は器用に白蛇を弄ぶ。
「っ、ぁふ……」
 頭の部分がすべて口に含まれたかと思うと、舌と上顎との間で押し潰され、転がすように愛撫を加えられてゆく。唾液は充分に満ちていて、歯が当たるような気配もない。明らかに慣れていた。夢の中にそのような「捲簾」を描き出してしまったのは、どこかで「下らぬ噂」を否定しきれなかった敖潤自身ということになる。
 ところが、やけに性急なその動きは先端に集中していた。頸よりも下の胴体に、くちびるが及ばない。なるほどその先の肌には鱗が浮いており、つけ根にかけては小さく柔らかい棘状の突起が疎らに散っている。まさに怪物のような出で立ち。敖潤としては本来他人に見られたくもなく、見せたこともないものだった。
「……どうした?」
 しかし意志とは関係なく、くちびるからは冷ややかな声がひとりでに滑り落ちてゆく。
「……ッ、む……」
 煽る敖潤をじろりと睨みつけ、負けじと捲簾は喉の奥へ蛇を誘い込んだ。苦々しげな顔をしつつも、娼婦のように慣れた舌づかいで、迎え入れた男の快を着々と高めてゆく。意地っ張りなのか、妙なところで義理堅いのか。やると決めたらやり遂げる――そのしつこさと潔さは、さしもの敖潤も認めざるを得ないところと言えた。
 間もなく鱗の這う一帯に口蓋が被さり、こわごわと、突起に舌が触れる。とうとう全て咥えこんだ口が窄められ、じゅるるっ――と、はしたない水音を立てながら、濡れた粘膜で蛇の全身を締めあげる。
「……は、っ」
 蕩かし尽くされそうなほどの温度と感触に、思わず敖潤が声にならない声を漏らす。聞きとめた捲簾が敖潤を見上げて目を見開いた。そして、ふ、と微かに鼻で笑い――強いて突起の合間を縫うように、舌先を絡ませ始める。熱く柔軟なそれに執拗なほど擽られ、更に敖潤の息が上がってゆく。今にも腰が抜けそうで、立っているのがやっとだ。
 もう一度強く吸いつかれて、頭に添えた手に思わず力が篭る。その瞬間――喉の奥まで突き込まれた捲簾が、激しく噎せ返った。
「げほ、っ……!」
 口腔からぬるりと這い出た蛇が、意図せずその頬をぺちんと打つ。見ればしとどに濡れたそれは微かな光に照り映え、すっかり身体を伸ばしきって鎌首をもたげている。顔をしかめて身を引いた捲簾が「おっかねー」と苦笑した。
 猛毒でも吐き出しそうだ、と。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 とかく夢とは、筋が通らないものなのである。
 仮に体罰の一環としてそのような事実があったとしても、直接の上官が命を受けて行うことなど有り得ない。
 因みに言えば、正式に決定した処分について天帝に掛け合うことも基本的には有り得ない。――有り得ないのだが。
「……確かに」
 取り次ぎの者から二つ連なった鍵を受け取り、敖潤は暫し自問した。果たしてここまで急く必要はあったのか、と。
「念の為に様子を見に行きたい」と申し出たこと自体は建前でも何でもない。しかし痛めつけられていると言っても命の危険はなく、そう経たないうちに釈放される筈なのだ。それを分かっていたからこそ、昨夜の自分は特に気にかけることもなく眠りについたのだろうに。
 ――何を案じている?
 あの生々しく奇妙な夢のせいだろうか。もしも「本当に」不逞の輩からその種の暴行を受けていたとすれば――されていたところで、敖潤には害などないが――少なくとも、好ましくは思えない。反りは合わないうえ問題ばかり起こしてくれるが、一応は預かっている部下なのだから。
 しかしまた、こうも思うのだ。あんなものを見てしまった後では「合わせる顔がない」と思うのも、また当然のことではなかろうか。
 そうこう考えているうちに敖潤は、地下の懲罰房へと続く階段を降りきっていた。徐々に徐々に、鉄格子が迫ってくる。壁の数カ所に取りつけられた小さな灯がつくる、心許ない光の中。壁に凭れ、吊り下がった鎖に腕を繋がれて、満身創痍の捲簾大将は座り込んでいた。

 殆ど夢に見たままの体勢。目線の高さ。怪我の具合――いや。本当に正確に覚えているのか。目の前にあるものをもって、曖昧な夢の中の光景を補完しているだけではないのか。
「……よォ」
 思わぬ声に敖潤は一瞬たじろいだ。
 半日以上も飲まず食わずでこれだけの傷を負わされれば、気絶していてもおかしくない。だというのにこの男は、当たり前のように意識を保ち、口の端に笑みすら浮かべている。
「見物人か?」
 きっ、と敖潤のほうへ向けられた眼はぎらついた獣のようで、しかし信じがたいほど冷静だ。猛りはすれど、狂ってはいない。
 この聡い男は、牙を剥く相手を間違えない。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「……ムッツリだろ、アンタ」
 壁に背を預け、つけ根から腿を押さえつけられた捲簾が悪態を吐く。
 きまり悪そうに目線を横へやるのも然り――履いていたものは全てずり下ろされ、脚をすっかり開いて恥部を見せつけるような格好になっている。痣や傷や血にまみれた上半身に比べると、腰より下は随分と穢れなくなめらかに思われて。それがやけに、敖潤の目に留まった。
「趣味でやっている訳ではない」
 応えた敖潤は服を着込んだまま膝をつき、唯一露出させた部分を一点へと向ける。敖潤の手では爪が邪魔だし、捲簾の手は使えない。となれば、そのまま挿入するほかない。そもそもこれは愛する者同士の戯れなどではなく、痛みと屈辱を与える為の罰なのだから。捲簾もそれは初めから承知している様子だが、どうも体勢に不満があるらしい。
「んじゃナニも、真ッ正面から……」
「自分から後ろを向けばいいだろう」
「ッ……!」
 向けるわけがない。動けない。
 その事実を思い知らされ、捲簾はあからさまに舌打ちをした。いかにも恨めしそうに、敖潤を睨みつける。その眼には確かに敵意があり――しかし全面的に彼へ憎しみを向けきれていない、どこか間の抜けた人の好さも感じ取れた。この行為は、あくまで命令であって敖潤の本意ではない。そういう設定だからだろう。
 諦めたようにいくらか力を抜いたその身に向け、敖潤は軽く体重を掛けた。ぬらぬらと濡れ光る純白の大蛇が、黄味の強い肌にぺっとりと寄り添う。頬ずりでもするように、窪みの辺りに軽く擦れる。捲簾の顔が明らかにひくりと引き攣り、とうとうその瞼が閉ざされた。めりこむ感触から逃げるように腰が捩れ、じゃらり、と手枷の鎖が大きく音を立てる。
「っ、ぐ……」
 ずっぷん、と。あっという間に蛇が頸まで呑み込まれた。
 恐らく意志とは裏腹に捲簾のからだはしっかりと喰らいつき、強く吸い上げるようにして、それを更に奥へといざなってしまう。
「……つめ、てぇ……」
 捲簾が苦しげにそう吐き捨てたのと、ちょうど反対に。敖潤にとって、その中は驚くほど熱かった。口の中よりも更にずっと熱く、狭く、どこまでも吸い込まれてしまいそうなほど深い。ただただ身を任せているうちに、着々と蛇は深部へと潜り込んでゆく。青い血管を透かした真っ白なそれが、くすんだ桃色の肉の輪をくぐってゆく。鱗の辺りを通り過ぎ、ついに棘までも呑まれようとしたその瞬間。
「う、」
 入口に異物の感触を察知して、捲簾の身体が急激に強張った。顔を見やれば、ちょうど開かれたその目と久々に視線がぶつかり――しかし一瞬で閉じられてしまう。こんな仕打ちを受けている時に顔など見たくない、というのは当然だろうが。琥珀のまわりに血の色の満ちた目は、ただでさえ不気味で厭なものだろう。
 そのまま再び顔を背けた捲簾を責め立てるように、敖潤は一度大きく腰を打ちつけた。
「……ふ、ぁぁ」
 滑り込んだ無数の突起が浅い部分の内壁を撫でさすると、からだが拒絶するように縮こまり、今までになく弱々しい息が漏れた。
 平気そうな顔をしていても、平気なわけがない。懲罰や上下関係といったものを恐れるような男ではないが、「これ」はそう単純なものではないのだ。
 言うなれば、異形のからだに己のからだを侵され、そして犯される――生理的な嫌悪と恐怖。
「つッ……!」
 棘と棘の合間にまでみちみちと食い込んでくる肉の感触がやわらかく、甘やかに痺れるようで。じっとりと汗ばむ肌や濡れる粘膜からうつる高い体温に、混ざり合う液の水音に、敖潤の感覚も麻痺しかけていた。これ以上からだが熱くなれば、脳が焼き切れ、深く交わるところが溶け合ってしまうのではないかと思うほど。
 ぴったりと密着したまま抉るように腰を回せば、あらゆる角度から細かな突起が襞をなぞり、捲簾がびくびくと腰を震わせる。「異」なるものが内側で蠢くたび、熱をもった内側は収縮し、押さえた腰は跳ね上がるのに、声は殆ど上がらない。暴れるうちに垂れ下がってきた前髪に隠れて、俯いた顔はよく見えない。ちらりと覗いたくちびるは強く噛みしめられ、紅い血が一筋、顎まで伝っていた。よく見れば身体のあちこちで小さな傷口が開き、ところどころ出血してしまっている。
 痛くても、素直に痛いと喚く男ではないが。恐らく今はそれ以上に、生まれくる快楽を抑え込んでいる。穿たれ、満たされ、弄くられて、着実に上り詰めている。棘をうずめられる直前に萎えかけたものも、中を掻き乱されるうちにゆるゆると立ち上がり、臍につきそうになっていた。それが情けなく揺れる様を目の端に捉えつつ、煮えるような熱の中を、敖潤は一心不乱に行き来する。ぐりゅっ――と音がしそうなほど、一点に蛇の頭を強く押しつける。
「ん……あ、っ」
 とうとう噛みしめた歯が離れ、小さく開いた捲簾の口から、はっきりと声が洩れた。ふいに再び現れた眼が髪の隙間から一瞬覗く。 薄く水の膜を張ったように、情欲に濡れていた。
「……ッ!」
 その瞬間どくん、と跳ねた敖潤の心臓から、血が一斉に巡り出す。「ぬけ」と乞う掠れた声が耳に届くより早く――長い舌を伸ばすように、蛇は精を撃ち放った。
「……ちょ……っ待……!」
 力ない制止の声も虚しく、一度あふれた種はとどまることなく次々と、腹の中に植えつけられてゆく。鋭く突き立てられた奔流が、一点を強く圧迫する。それに呼応するように、捲簾のものがひときわ大きく痙攣した。同時に形のいい足の指に、ぎゅっと力が籠められる。
「は……あ、あぁっ……」
 小刻みに吐き出す間、解放感からか捲簾は我慢できないといった顔で身を捩る。身体が前方へ滑って一段と挿入が深くなり、引っ張られた手枷の鎖がうるさく鳴った。
 宙に浮いた脚は、指を丸めたままがくがくと震えている。不安定な姿勢で負担がかかっている筈だ。しかし意地でもその脚を、覆い被さる男の腰に絡めようとはしない。
「……あぁ、」
 脱力した声と共に、捲簾自身の腹の上――今もなお内側にたっぷりと濃厚な精を注ぎこまれている、その外側――へ、残滓が数滴落ちる。溜まったそれは鍛えられた身体の凹凸に沿って流れ、臍の下へ、ずっぽりと結合した二人の境目へ、とろとろと垂れ落ちてゆく。
「……はぁっ……」
 絶えず湧き出ては放たれる欲求が漸く収まろうとしているのを感じ取り、敖潤も大きく息をついた。

 下界で言うところの、何年分になるのだろうか。
 今まで吐き出しようもなく溜め込んでいたものを、すべて一度に迸らせたような感覚。それこそ現実には有り得ないことだった。自分の身体とは思えない――本当に、その部分が自分と切り離され、ひとりでに暴れる化け物であったかのような。
 力尽きた蛇をずるりと引き抜くと、吐き出したものが同時にどろっと零れ出る。猛毒、というには大袈裟にしろ、粘度が高く色濃いその白濁は体内に留めておいていいものとは思えない。ぽっかりと敖潤のかたちに空いた穴から溢れるそれは、垂る捲簾のものと混じって石の床まで汚してゆく。中には時折ぽろぽろと白銀の鱗が滑り出て、虹色に弱く煌めきだす。卵のように腹の中に孕ませたそれはある意味、懲罰の動かぬ証拠にもなるだろう。
「……充分か」
 珍しく疲れを帯びた敖潤の声も、きっと聞こえていない。未だ淵の辺りを刺激する異物感に小さく身体を引き攣らせつつ、捲簾は眠りに落ちるように意識を失ってゆく。

 閉ざされる寸前の両の眼は、どこか憐れみを湛えていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……大したことねえっての」
 鉄柵越しに差し出した手は、触れることもなく拒まれた。

 恐らく夢の中よりも傷つき消耗している男は、しかし意地を張るようにひとりで立ち上がる。所在なく浮いた掌を、敖潤はじっと見つめなおした。
 その色を、表皮の感触を、鋭く伸びる爪を。誰だって、何があったって、触れたいとは思わないだろう。
「で。竜王サマ直々にお迎えとは何事で?」
「……」
 柄にもなく言葉に詰まる。訊かれることは分かっていた筈なのに、納得のいく答えはひとつも用意できていなかった。やはり分からないのだ。捲簾大将という男に、大して興味も執着もないつもりでいた。傍目にも、わざわざここに来る理由なんてないだろう。
 ふと天蓬元帥の名が頭を過った。もしも誰かが迎えに来るとしたら、この男が最も期待したのは彼だろう。「例の」噂を置いておくにしても彼は捲簾の直属の上官で、一小隊を共に率いる相棒でもある。
「天蓬元帥が申し出たのだが、ちょうど緊急の書類が溜まっていた。私は代理だ」
「……は?」
 すると捲簾は錠前を外す手を止め、ぽかんと口を開けたまま目をぱちくりさせた。まるで彼が捲簾を迎えに行きたがることも、緊急の書類を真面目に片づけることも、天地が引っ繰り返ったって有り得ないと言わんばかりに。
 彼はこの男よりよほど優秀な筈だが――と、敖潤は首をひねる。信用しているのか、過度にしないからこそ付き合っていけるのか。ますます分からなくなり困惑したが、よっこらせ、と扉を押し開ける捲簾の声で我に返る。仕事が詰まっているのだ。ここで長々と油を売っている場合ではない。
 柵に掴まって立った捲簾に踵を返し、無言のうちに早く来いと命令する。
「出るぞ。動けるのなら元帥の手伝いでもすればいい」
「……そもそも九割がた俺がやってんだけどなぁ」
 ぶつくさと何か言いながら、捲簾が漸く歩き出す――と間もなく、その気配が大きく揺らぐ。咄嗟に振り返れば、重力に流されるがまま捲簾が懐に倒れ込んできた。
「捲、」
「……っは、立ち眩みだろ」
 何でもなさそうに言いつつも、捲簾は動かない。弱くしがみつくように敖潤の腕に手をやり、肩で息をしている。
 ――ああ、悟られはしないだろうか。
 温度と息遣いに触れて、敖潤の背中を冷や汗が伝ってゆく。ひとりでに鼓動が速くなる。夢で穢した気まずさか。それとも随分と久しぶりに、ひとの温もりにあてられたせいか。どちらも否定できない気がした。
「……妙なところで意地を張るな」
 しかし努めて冷静に敖潤は告げ、溜息を吐いた。聞こえよがしに舌打ちをする捲簾に背を向け、屈みこむ。あちらが腕を肩に、脚を腰に回してくれば、背負って立ち上がれる――何と呼ぶのかは知らなかったが、捲簾がそうしてあの子供を担いでやろうとするのを見たことがあった。枷の重さで、歩くことも叶わなかったようだが。
「いいって。恥ずかしいわ」
「暫く階段だが」
「ッ……」
 途端に勢いをなくした捲簾がさっと青ざめる。もしかすると高い所が苦手なのか。それほどの長さはないとは言え、覚束ない足取りで隙間の空いた螺旋階段を上るのはさぞ厭だろう。
 はあ、と観念したように大きく息を吐き、漸く捲簾の身体が被さってくる。
「上がりきるまでは辛抱しろ」

 そう言いつつも、辛抱を強いられるのは寧ろ敖潤のほうだった。
 まず躊躇いがちに回された腕に、その肩が小さくびくついた。腿の下に添えた掌も、徐々に汗ばんでくる。乱れそうになる呼吸を整えようと努めつつ、敖潤はゆっくりと腰を上げた。恐らく自分より少し重い捲簾の体重が、ずっしりと全身にのしかかる。無論、敖潤も見かけよりは鍛えているから、その程度では音を上げないが。
「……っ、」
 じかに接した、常より少し低い筈の――けれど敖潤よりはずっと高い体温が、背中から染み渡ってくる。
 冷たい身体が、ふるえてしまいそうになる。夢の中の、蕩けそうな、怖ろしいほどのぬくもりを思い出して。
 ひとに避けられ、次第に自ら避ける癖のついたその身体は、僅かに肌が触れ合うだけでもぞっとしてしまう程なのに。一体どうしてあんな夢を見てしまったのか。
 息を上げつつ一段また一段と、地上まで二階分の階段を上り始める。下りてくるときには短く感じていたそれが、今は無限にも思えた。ぴんと張りつめた神経が、身体にかかる負担を何倍にも増幅させているらしい。
「……なーんか」
 踊り場で突然、捲簾がぽそりと声を発した。
「冷たそうとか、思ってたんだけどよ。意外と普通だな、アンタ」
「……何の話だ」
 捲簾は眠たげに「んー」と唸るばかりで、はっきりと応えない。性格や対応のことなのか、文字通り体温のことなのか。具体的に何を指して言ったのか、いまひとつ分からない。
 並ぶ鉄板に一歩ずつ足をかけてゆく。敖潤がよろめくたび、首筋には喘ぐような息がかかり、掴まる手には力が篭る。先程よりは落ち着いて明瞭になってきた視界の隅に、手枷の痕がちらついた。思わず立ち止まる。露出した骨っぽい腕には、鞭で打たれたような傷が何本も走っていた。
 よく耐えたものだ――と、肩まで傷を追うように首をひねったところで、はたと目が合った。
 ところが、夢の中とは違う。
 捲簾の視線は外れない。あまりにも誠実に、まっすぐに、異形の眼を捉えている。寧ろ敖潤のほうが耐え切れなくなり、先に向き直ってしまうほどに。

 気づけば、扉の隙間から差す光で辺りは先程より明るい。いよいよ上り終えるというその時、後ろからまた声がした。
「……忘れねえうちに返すかんな、借り」
「……別に、構わない」
「俺が構うの」
 意地っ張りなのか、妙なところで義理堅いのか。
 一段と低く神妙な声で、誓うように彼は言ったのだ。

 階段を無事切り抜けたと分かった途端「下ろせよ」と訴える声は、打って変わっていつもの粗野な調子だった。半ば投げ出すように腕を解き、力ない抗議を背に受けながら敖潤は思う。
 いつか、この男を心から認めるときが。
 躊躇いもなく手を差し出したいと思うときが、来るのだろうか。
 少なくとも今は、とても想像できない。それでいて、するすると背から剥がれてゆく重みと温もりを、光に呑まれて消えてゆく地下の闇と饐えたにおいを――不思議と惜しんでいる自分に、気づいていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……ん、」
 柄にもなく、机に向かったまま眠ってしまっていた。
 よく考えてみれば、随分と眠っていない。天蓬元帥が時折言っていた「眠るのを忘れる」とは、こういう状態のことなのか。今更ながらに敖潤は得心し、顔を上げた。

 窓際の小さな机の上、敖潤の突っ伏していた傍らには、ちょうど最後の頁まで書き込まれた厚い紙の束がある。書き終えたばかりの「彼ら」についての手記だ。意識が戻り、己の使命を自覚してこのかた――下界で言う一週間ほどの間、敖潤は一睡もせず作業を続けていた。一通り書き終え筆を置いてすぐ、糸が切れるようにそのまま眠りに落ちたらしい。
 そして夢を見た「あの日」の、夢を見ていた。
 ちょうど寝入る直前まで、彼の最期に思いを馳せていたからだろう。今にして思えば人の檻も獣の檻も、灰暗く血のにおいに満ちたところだった。そんなふたつの場所で過ごしたごく短い時間、それが彼とふたりでいた記憶のほぼ全てなのだが。それだけでも捲簾大将という男の在りようは、敖潤の身に深く刻み込まれていた。

 ――忘れねえうちに返すかんな、借り。
「……っ、」
 命を以て命を救われたのだ。
 寧ろ、返しきれないほどの貸しができてしまった。

 改めて彼の死を想うと、言いようもない感情が敖潤の中で渦を巻く。同じ男として、そして軍人としての、限りなく純粋な敬意。どこか後ろ暗い慕情と、そこから生まれる罪悪感。そのすべてが重なり合い、歪な形を成している。
あの夢は果たして潜在的な欲望の発露だったのか。そして今、捲簾に対し抱いている感情は、それに属するものなのか――はっきりとは分からない。夢の情景を呼び起こしてみたところで、自身の身体に訊くことはできない。何せ下半身はひどく損傷し、全く機能していないのだから。
 そもそも強い繁殖力を要しない天界人にとって、下界の人間のような日常的な性欲はあってないようなものだ。捲簾のような輩は物好きの部類だし、そんな彼でさえ四六時中女性を口説いていたわけでもあるまい。
 少なくとも敖潤は誰かに劣情を抱いた覚えも、実際に身体的な欲求や限界を感じたこともなかった。それでも夢の中で身体は確かに反応し、溜めこんだ欲望を捲簾の中に注ぎ込んでいた。まるで、正しい容れ物に移し替えるかのように。

 もしかすると、欲望の本質がすり替わっていたのか。
 願った覚えなどないが、本当は心の何処かで期待してしまっていたのかもしれない。生白く冷たく見苦しい身体に、怯むことなく触れてほしいと。いちばん穢らわしいところまで、すべて受け容れてほしいと。
 そんな利己的な望みは醜いものだと、己とは関わりのないものだと、あの頃の敖潤は疑いもしなかった。けれども恐らく捲簾がその素質を持ち合わせているということは、きっと本能的に分かっていた。
 そして、それは見込み違いではなかった。醜悪で獰猛な「異形」にさえ笑いかけ、その命を想って身を捧げたのだ、捲簾大将という男は。

 彼は私を気味悪がらず受け容れることができた筈だ。
 私は彼を尊敬に値する男と認めることができた筈だ。
 初めから、お互いがお互いを跳ねつけていなければ。

 一体どれほどの間、ふたりは擦れ違っていたのだろう。相容れないものと決めつけ、互いに見て見ぬふりをしていたのだろう。

 もしも、あと少し時間があれば。
 もしも、何かひとつ歯車が違っていれば。
 もしも、もっと早く天界の過ちに気づいていれば。

 共に肩を並べて戦うことがあったろうか。他愛もない話をすることも、酒を酌み交わすようなことも。「もしも」なんて有り得ないと分かりながら、そんなことを考えずにはいられない。

「ッ、げほっ!」
 吐き出した血が、覆った掌の上に拡がる。その鮮紅の中にひとしずく、はらりと透明な雫が落ちた。
 気がつけば肺に劣らぬほど、目頭が熱をもっている。
 あちこちの機能を失った身体は、以前にも増して冷たくなったように感じていた。それでも内から流れ出るものが、これほどまでに温かいとは。静かに頬を伝い落ちる小さな熱のかたまりに、敖潤はひどく安堵した。

 けれどもう、長くはないのだろう。上半身が動くのがせめてもの救いだが、書き物や食事のほかは何ひとつ自力で出来ないし、喀血の頻度は日増しにひどくなっている。
 残された仕事さえ終えてしまえば、あの命に報いれば、最早この命など惜しくない。けれど死というものに追われる日々の中で寧ろ、敖潤は自分が生きていることを実感し始めていた。その終わりについて、考えることが増えた。
 この心臓が止まったら、私は何処へ逝くのだろう。
 罪は自覚している。天界からもある程度の責を負わされている。決していいところには行かないだろうが、彼らと同じ場所というわけにもいかないのかもしれない。
 もしもこの箱庭のような天界を飛び出した、より大きく普遍的な世界があるとして。人々の生き死にが、魂の行方が、司られているのだとしたら。どうか少しだけ、戯言に耳を傾けてほしいと思う。

 彼らの魂は決して赦されないだろう。
 彼らは罪を負わされ地を這うだろう。
 もしも、共に堕ちることが叶うなら。
 それを救い上げるための翼が欲しい。
 望む所へ運びゆくための脚が欲しい。
 今度こそ、その花を傍で看届けたい。

 再び、静かな眠気が敖潤を襲う。意識が朦朧としてきた。今度こそ、目覚めることは叶わないのかもしれない。
 身体に傷は負っていれど温かな光の中、上等な椅子の上で迎える死とは、彼らと比べものにならないほど穏やかで退屈だ。遺体も恐らく、それなりに処理されてしまうのだろう。それでもなお魂は、天界の手に渡らせない。下りてゆかねばならないのだ。

 あの二人の魂は、きっと真っ先に惹かれあう。そこに運よく流れ着いて、そのときにはもう記憶も自我も、何も残っていなかったとしても。きっと「敖潤」は「捲簾」に、素直に好意を表すことなどできない。寧ろやはり「天蓬」をこそ第一に信用するのだろう。何故か、そんな気がした。
 けれど構わない。意地を張り続けることもなく、陰謀に翻弄されることもなく、当たり前に共に在れる世界なら。ただそれだけで幾分か、救われることもある筈だ。

 色褪せた唇から洩れる息が、すっと静かに途絶えた。
 そして敖潤は、醒めることのない夢のうちに溶けてゆく。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夢を見た。
 今日は朝からご主人が出かけていて、目覚めればひとりきりだった。まどろむうちに、ふたたび眠りに落ちてしまったのだけれど。そのときに、とてもふしぎな夢を見た。

 あれは、高貴な竜神だろう。何もない空間の真っ白な床に座りこみ、胸に誰かを抱いて、銀の髪に隠れた真っ赤な眼から静かに涙を流していた。抱かれているその人は、ぴくりとも動かない。ずいぶんと深く、眠りこんでいるようだった。
 夢に現れているにもかかわらず、ふたりが誰なのかは分からない。けれど僕にはその深い眠りが、ひとすじの涙が、ひとごとだとは思えなかった。まるで何かを僕に伝えるために、誰かがつづった手紙のようだと思ったのだ。
 そして徐々に、眠りこむ人の顔がはっきりと見えてきた。髪は短く、黒かった。けれど思い返せば、伏せたまぶたを飾る長いまつげには、どこかあの人の面影が――

 ふと、隣の部屋からガタンと音がした。

 たったいま目を覚ましたらしい、もうひとりの同居人。僕よりよっぽどご主人に手間をかけさせるダメな大人だ。ひとりでいると、いくらでも散らかすし洗濯物は溜めるし、部屋中をタバコの煙でいっぱいにしてしまう。
 もっとも、彼を「困った人」だなんて言うご主人の顔は、時々どこか嬉しそうだ。僕だって、べつに嫌っているわけじゃない。それに今日は一日ご主人がいないから、忘れずにご飯を貰えるよう、存在を主張しておいたほうがいいだろう。
 ――きゅう。あいさつがわりにひと声鳴いて、寝ぼけまなこで廊下へ歩み出たその肩に着地する。ご主人よりも骨ばった体からは、ちょっと男っぽいにおいがした。
 媚びても何も出ねーぞ、とか失礼なことを言われても、片足を肩に食いこませるぐらいで許してやる。今日は、そんな気分だった。しばらく彼に、身を寄せていたかった。

 どうかさみしいあの夢の主の、救いとなりますようにと。
 どこでもないその場所へ、かすかな祈りをささげながら。





[2016-01-11]