さがして。求めて。縋るように、奥に奥に。そうして捲簾の舌が届いてやっと、天蓬のそれは緩慢に怠そうに、応えて動く。
 ふと随分あっさりと唇が離れた。間髪を入れず、今度は天蓬から塞がれる。追い詰めるように、また深く。長い指はしなやかに弧を描いて捲簾の首筋に吸いつき、その身を更に引き寄せる。
 いつになく積極的な舌と力の籠った指先に、微睡んでいた捲簾の目も覚めた。彼の瞳が自分を捉えたのに応えて、薄目を開けていた天蓬は妖しく笑う。紫がかった濃灰の瞳が四つ、闇に浮かび上がるように冴える。いちばん近い距離で互いの瞳に互いを映したまま、外で、中で、舌を絡め合う。天蓬が可笑しげにくっと喉を鳴らした。
「……っは……捲簾」
 名残惜しげに唇を離すや否や、横向きに寝転がっていた天蓬は大儀そうに動いて捲簾の身体を跨いだ。ちょうど正常位のかたちだが、傍から見れば少し歪な絵かもしれない。上に乗っている天蓬のほうがどちらかというと女みた顔であるし、長いキスのあとに捲簾より息をあげる様が不馴れなものだから。
「今度は、こっちがいいです」
「言うと思った。好きねーアンタも」
 おいで、と低く囁いて、捲簾は先程まで組み敷いていた男の身体を引き寄せた。天蓬は妙な知識ばかり深い割に実践面では疎いから、どちらにしろ捲簾がリードせざるを得ないことが多い。ただ天蓬の出鱈目な手つきが時折おそろしい程の快を引き出してくるのが、捲簾は少しだけ悔しかった。惚れた弱みもあるのだろうが。
 捲簾の首筋や鎖骨をなぞりながら、天蓬はふと思い返す。

 天蓬は元来あまり人と関わることを好まず、自分の世界に閉じこもることが多い。どれほど長生きしても好奇心が尽きることはなかったし、不要な記憶を削ぎ落とす機能は年々発達して片っ端から色々なことを忘れていくし、ある意味かなり天界人生活を上手く楽しんでいたのだが。その強固な殻を破った者の筆頭は間違いなく彼なのだろう。
 あらゆることを「感じなく」なりかけていた身体を見事に元に戻した――もとい――すっかり作り変えたのが彼だ。
 初めの頃捲簾は、ぼんやりとした天蓬をあちこちから解すように触れて、熱い、とか、気持ちい、とか、尋ねているのか言い聞かせているのか分からない口調で繰り返した。ずっとそうされているうちに天蓬は確かに身体が火照り、下半身に重みが下りてくる感覚を思い出した。というより覚え直した。最終的にやたらと気持ちよくなってなんだか霰もない声を上げながら果ててしまったことは、天蓬が鮮明に覚えている数少ない情景のひとつだ。
 幼稚な表現だろうが、捲簾の囁く言葉は正に魔法だったのだろう。尤もその「効き目」が意図以上に凄かった為に、色々な意味で後々苦労することになるのは捲簾本人だったのだが。
 そのくせ天蓬は、情事に至った具体的なきっかけを覚えていない。そこはどうでもよかったのか、揺さぶられたついでにトんでしまったのかは本人にも分からないし気にもかけていない。

 天蓬はゆっくりと捲簾の胸板に手を這わせた。自分より少しばかり大きな体躯に見合った、堅めの肌と程よく浮き出た筋。腹のあたりで緩慢に指を弄ばせると、くすぐったげにそれが震え、喉で笑う声がする。腰に手を回し、少しずつ後ろへ、また下へ、徐々に一点を目指して指が蠢く。
「ん……何、ちょっと巧くなったんでねーの」
「それは光栄。でも、にしては反応が薄くないですか」
「これがデフォだ、デフォ」
 捲簾は勝ち気な笑みを見せた。

 次いで天蓬の頭に浮かんだのは、今まさに当たり前に行われている行為について。
 なんだかんだと天蓬の頼みを断れない捲簾は、いつからか己も体を譲るようになった。尤もある程度は当人も乗り気だったようだが。
 筋肉質な身体をぎこちなく探り、遂に柔らかい部分を見つけだした瞬間の昂りも。いつもの余裕を少しずつ失って歪む表情と、その割に軽やかに誘う声音も。天蓬は驚くほど鮮やかに思い出せる。
 しかしそこに及んだ経緯については、やはり忘れているのだった。それはひとえに、目の前にある姿と身体中で感じる熱さとがすべてだから、か。

「天蓬?」
 ぼうっとした様子で腰を押し付ける天蓬は、下から呼びかける声で我に返った。
「おっまえ、眠いとか言うんじゃねーだろーな……ん、このまんま寝たらマジで殴るぞ」
「っふ……いえ、なんだか色々と思い出しちゃって」
 ふと走馬灯の様だ、と天蓬は思う。数秒後には自分で笑いそうになった。
「……あー」
 ベッドの軋む音に混じった間抜けな声に、天蓬は動きを少し緩めた。
「アレ使わなかったな。時既に遅しってカンジだけど」
「んっと……ゴムですか」
「そ。いつだかに持ち込んだやつ」
「すごい薄いやつですよね、下界の技術力に感動してつい買っちゃったんですよねぇ。でも、どこにやったか……覚えてなく、て……ッは……そもそも僕ら、ウイルスにやられるほど繊細な身体じゃないでしょう、に」
「そういう問題じゃ……ん、」
 深くうずめた熱は着々と臨界に近づいていた。それに応えるように時折締め付ける身体に、天蓬は更に夢中になってゆく。大きな瞳は恍惚に潤み、息は湿っぽい喘ぎをたっぷりと孕む。
「ふ、どのみち、ここにはありませんし……ッん……ぁ、だから、けん、れん……貴方の、っう」
 言葉よりも先に、中に吐き出された。
 はぁ、と甘ったるい息を吐いて、力の抜けた天蓬は捲簾の上に体重を預ける。捲簾は重い重いと文句を垂れつつも、体内に溜まったまま揺らぐ液の音や感触に、気の強そうな瞳を少し蕩けさせたように見えた。
「……ふふ、ほら、本当はイイくせに」
 天蓬は息を上げつつもからかうように囁き、蜜に塗れた捲簾のものに指を絡めて弄う。萎んだものがゆっくりと引き抜かれてゆくと、内側をなぞる刺激に身体がびくりと震え、少し遅れ気味に捲簾も達した。
「っく……こういう時だけせっかちな、お前」
「聞こえません」
 くたりとした捲簾の上から、天蓬はよいしょと身を退けて横に寝転がった。捲簾は大きく息を吐き、呆れたように尋ねる。
「……つーか、なんでいっつも俺より反応してんの。変な気分なんだけど」
「貴方の中がとんでもなく気持ちいいんでそういう声が出るんですよ悪いですか」
「あーあーさいですか」
 素直なのはイイことで、と早口に呟くと、捲簾は照れたように口許を覆って目を逸らした。完全に参っている。いつもながら率直に過ぎる天蓬の言いように、流石に面食らったらしい。

 やがて先に起き上がった天蓬は、ベッドの下に脱ぎ散らかした白衣のポケットから煙草を取り出した。青い錨のマークが入った、彼のお気に入りだ。
「ライターと携帯灰皿。持ってましたよね」
「ああ、多分入ってる」
 まだ動かない捲簾を尻目に、天蓬は乱雑に軍服の上着を揺すった。煙草の箱とライターとビニールの携帯灰皿が、どこからともなく滑り落ちる。天蓬はライターを拾い上げ、セピア色の煙草に火を点けた。
「『美味い』?」
「ええ、変わりなく」
「どんな味よ、それ」
「あれ? いつかに一本くれとか言われたような気がしなくもないんですけど」
「結局吸ってねーんだわ。拝借」
 捲簾は潰れかけた箱から抜いた一本を浅く咥えると、自然な動作で先端を天蓬の火元に寄せた。二本の先がぴったりと重なり、ぼやけた紅い灯が移る。少しずつ離れる先端から立ち昇る紫煙は交差し、求め合うように絡んで天を目指す。
「……あっま」
 吸い込んだ瞬間に軽く噎せた捲簾は、少し味を見て眉を顰めた。
「よくまぁ毎日何箱も空けてたな」
「ラスイチ奪っといて酷い言い種だなぁ」
 淡々と言われて捲簾は気がついた。不覚だった。先ほど手放した箱は只の殻になっていたのだ。返す、と呟いて火を消そうと灰皿に伸びる手を、天蓬はにこりと制した。捲簾は黙って、毒々しいほど甘ったるい煙を吸い込むことにした。
 暫く寄り添って揃いの煙草を呑んでいると、天蓬が足元の箱に目を向けた。
「ハイライトですか。最近お気に入りで?」
「まぁ割と。たまたま纏めて買ってたし」
 尽きたアークロイヤルを灰皿に押しつけ、捲簾が自分の煙草へと手を伸ばす、と。
「あ、待って」
 また天蓬から唇が塞がれた。二つの唇の間で、取り込んだばかりのバニラの薫りが行き来する。ふわりふわりと漂って二人の隙間を満たす。捲簾が自分と同じ匂いを、大好きな匂いを纏っている、その感覚が天蓬の鼻腔に深く刻み込まれる。
「……ずっと、やりたかったんですよね」
 満足げに言う天蓬に、捲簾は少し意地悪そうに言葉を返す。
「ほー、俺の味は不服でしたか」
「ええ。もうちょっと美味しかったら、もっともっとしてあげてましたよ?」
 もう間に合ってます、とでも言いたげに、捲簾は少し呆れた顔で笑った。


「……さて」
 適当に服を着つつ一息つくと、二人は殆ど同時にそう発声した。
「……何だろーな、ココ」
「待合室ってとこですか」
「あ、やっぱり?」
「一括されちゃったんですねぇ。タイミングが近かったのかな」

 何時間か前に此処で折り重なって目覚めた二人は、暫く時間を持て余していた。
 そこはひたすら真っ白で真四角で、無機質と殺風景を極めた九畳ほどの個室だった。部屋の中心には、救護室にあったような一人用のしみったれた寝台がぽつんと置かれている。どこかに通じていそうな扉は無く、天井は捲簾の手がなんとか触れられそうなほど低い。まるで匣の中に封じ込められたようである。
 ふと今改めて周囲を見渡した捲簾は、左右の壁に設えられた丸窓に気づいた。やはり嵌め殺しのようだ。銀色に縁取られた同じ大きさの窓の向こうは、片方が乳白色、もう片方が漆黒。
「さっきまで無かったよな?」
 意味がいまいち掴めなかった天蓬は、じっと眼を凝らす。眼鏡が無いのだ。左側にはぼんやりと黒い穴のようなものが見えているが、右側は部屋の壁と同化して分からない。ちらりと窓枠が光を反射すると、漸く天蓬は心得て頷いた。その二つの穴は確かに、情事の最中に突然現れたに違いなかった。
「お?」
 捲簾が何かに気づいたように、闇の窓へと歩み寄った。天蓬も立ち上がり、後に続く。
「……桜」
 ではなかった。
 丁度ほぼ視線の高さ、肩幅程度の直径に円く刳り抜かれた風景は、紛れもなく下界のものだった。僅かに赤味を帯びて輝く月。ごく近いらしく、捲簾には表面の模様まで見える。その月の光を歪めながら映す、雄大で澄んだ泉。一片また一片と、その水面に接した端から消えて逝く、粉雪。
「下界はそろそろ春だろ。水だって凍ってねえし」
「『なごり雪』ってやつですかね」
 ちらちらと光を受けて降るそれも、あたりに湛えられた真水も、限りなく精巧な立体映像のようだった。実際、これが本当に板一枚隔てた向こうの景色なら、この奇っ怪なハコは揺れもせず水面に浮かんでいることになるのだから。
 天蓬がぼうっと舞う雪を見つめている間、思い出したように捲簾は後ろの窓へ近づいてみた。しかし入り込む光が眩しく、向こうにあるものを直視できそうにない。
 天界か、と少し懐かしげに零し、捲簾は暗い窓のもとへ身を翻した。
「これは僕の勝手な想像なんですけど」
 振り返った天蓬は意味ありげに笑う。微かに月明かりを受けた瞳は、一層聡明そうに透き通っている。
「夜明けまでの執行猶予なのかもしれませんね。どなたからのサービスかは存じ上げませんが」
「猶予ってもなぁ。こんな狭ッ苦しいトコでヤれることなんて限られてんだろーよ。別にいーけど」
 あはは、と窓の外を向いたまま天蓬はわざとらしく笑う。
「もし金蝉や悟空が来たら色んな意味で眼ェ剥いちゃいますよ」
「っはは、来んな来んな」
 捲簾は少しの距離をおいて並び、壁に背を預けた。たなびく煙草の煙が一筋、天蓬の髪に絡む。
「……来なくていーんだよ、こんなトコに」
「……ええ、そうですね」
 俯いた捲簾の表情は見えなかったが、その真意が天蓬に分からない筈は無かった。
「しかしまぁ、地獄に送られそうな雰囲気でもないんですよね」
 天蓬は極楽やら地獄を大して真剣に捉えてはいなかったが、現にこうして死後の世界に存在しているとなれば、自分達が地獄と思しき場所に居ないのは不思議だった。何しろ大罪人だ。
「来世で罰でも受けるんですかねぇ」
「来世ェ? それこそ知ったこっちゃねーっての」
 前世だとか来世だとか、そういった考えも二人はやはり好んでいなかった。記憶や魂は己だけのものだ。縦しんば誰かに受け継がれたところで、その輩の人生は自分達の与り知らぬところである。
 捲簾は煙草を灰皿に押しつけつつ、また新しい一本を取り出した。箱の残骸がはらりと床に落ちる。最後の一本、だった。
 くい、と。何も言わず天蓬が横から腕を引くと、捲簾は久方ぶりに向き直った。急かすように引き寄せて吸いつく唇は、少し焦っていた。唇が離れた瞬間――ぐら、と捲簾が傾いだ。摘んでいた最期の煙草が掌を擦り抜ける。
「ッ!」
 僅かに呻き声を上げて、その身が膝から崩れ落ちた。天蓬は屈んで、痙攣する身体を背中から抱え上げた。覚悟するように、固唾を飲む。
 月は情け容赦なく沈んで逝く。時は満ちたらしい。
「っ……へ、大した仕様だぜ、全く……ぐッ」
「……貴方、全身を?」
 応える代わりに捲簾は、胸を押さえたまま精一杯、力強く笑った。瞳に宿っていた灯は徐々に薄くなってゆく。月影は殆ど消え去り、向かいの窓から差す無粋な灯りだけが捲簾の頬を浮かび上がらせている。
 紙屑を丸めるように、ぐしゃり――かさり――とあまりにも軽い音を立て、肉体が内側から滅び行く。重みも温もりも間違いなく感じ合ったが、所詮は仮初の姿だったのだ。拍子抜けするほど軽いこれが、人の骨の砕ける音だろうか。天蓬は背中に手を回し、隠すように、護るように、捲簾を抱きすくめる。痛ェよ、と笑う声が内側に篭った。少し間をおいて、天蓬がゆっくりと言う。
「……月が、綺麗でしたねぇ」
 ――『下界の文豪は、ぶっきらぼうで美しい愛の詞を沢山持っているんですよ。例えばそう、月が綺麗ですね、とか』
 随分前の記憶の中の天蓬が、捲簾にそう優しく告げる。
「…………あぁ、」

 にやりと笑って頷くと、それは大層きれいに散った。
 腕の中の質量が霧散すると、灰皿は一瞬空に留まり、中身を散らしながら床に落ちた。どこからか小さな欠片が降り、二色の吸殻の上に吸い寄せられるように着地する。

 桜の花弁だった。

 間もなく聞こえたのは、硝子にヒビが入るような音。遺されたひとりの体の中から響く音だった。破片は片っ端から砕け、次々と細かい粒子に変わる。音は段々と細く、幾重にも重なって、煌びやかな和音を成す。天蓬もまた腹部を強く抑えて蹲り、真っ白く冷たい床に倒れ伏した。
 霞んでゆく視界の端に、取り遺された灰皿がちらりと舞い込む。天蓬が倒れ込んだ衝撃で舞い上がった花弁は、くるくると舞いながらまた吸殻の上に――下りかけたが、ふと、何かに気がついたように目の前へと滑って来た。
 天蓬は、ふ、と口の端を緩め、呼気を荒げながらも最期の言葉を搾り出す。殆ど声になっていない。

 ――もし、桜の下でまた逢えるなら、
 ――満月の夜がいいなぁ、って思ってたんですよね。
 ――ほら、花も酒も一層素晴らしかったでしょうし、
 ――僕達の負う何もかも、否応なしに照らしてくれる。
 ――清々しいと思いませんか。

 最期の最期に、明瞭な発音で告げた。
「おや、すみ……なさい……捲、簾」

 薄紅の上に雫が落ちた。
 躯が散り逝くのに呼応して、天界側の窓ががたがたと大きく揺れ始めた。結界が解けるように、透明な板の向こう側が歪む。
 やがて容赦なく飛び込んだのは、光を纏う桜吹雪。
 その量は尋常ではない。轟々と狂気的な程の音を立て、突風に乗る塊と化して波のように空間に雪崩れ込む。遺された上着も煙草の吸殻も、すべてすべて、桜の中に埋葬されてゆく。静寂はすっかり失われ、飾り気の無い白い箱は殆どあかく染め上げられた。
 風が凪ぐと、宙に舞う花弁の中から幾らかが、朝焼けを切り取っている――最前までは「闇の窓」だった――窓を目指した。
 誰にも聞き届けられることの無い声が、空に凛と響いた。

 また、あとで。





2013-01-31