「たっだいまー」
 いやに浮かれた声を受けてキッチンに立つ捲簾が振り向けば、覚束無い足取りの悟浄が背中にべたんと貼りついた。首元に酒気を帯びた息がかかり、捲簾は僅かに顔をしかめる。
「何ソレー、新しいカクテル? ちょーだ」
「ダーメ」
 伸びてきた手を容赦なく払うと、捲簾はグラスをローテーブルに避難させつつそのまま腰を下ろした。すかさず悟浄がくっついてきて隣に座り込み、むやみやたらに近づいて覗き込む。不服げに唇を尖らせながら。
「……んだよ、もうガキじゃねーんだしちょっとくれえ」
「そんなフラフラで何がちょっとだ。調子乗んなよ悪ガキ」
「へへー。卒業パーティーだもんよ」
 あいつらと、か。悟浄が2年の4月に編入した中学から長くつるんでいるあまり品のよろしくない友人を幾人か思い浮かべ、捲簾は溜め息をついた。特によく遊んでいたらしい三白眼のデコ野郎は元気だろうか。悟浄と同じくフリーターになりそうだ。
「なーなー、飲ませてって」
 上機嫌な悟浄がふいに捲簾の腰に抱きつく。と、その身体が傾き浮いていた手がグラスをひっかけた。
「っと、」
 ぐらりと傾いだ容器は倒れきる前に掬い上げられ、中の酒はいくらか留まってくれた。勿体ねえと呟いて捲簾がそれを一気に飲み干すと、悟浄が不満そうにあぁー、とかなんとか頭の悪そうな声を上げる。
「ったく、大分零しちまったじゃねーか」
 しとどに濡れた手の甲を舐める舌に、据わった紅い眼がじっと視線を注ぐ。だらっと溶けていた悟浄の体が心持ち少し張りつめ、徐に腕が伸ばされた。まっすぐ捲簾の口許を目指す。手首を掴む。引き寄せる。舌を構えて少し開いたその唇まで、浚ってゆく。
「おい、」
「ん、うっめ」
「……ッ、意地汚ェぞ、こら」
 人差し指から舐め取った酒がお気に召したらしく、悟浄の舌は濡れて光る一帯を探るように辿る。熱い感触が指の股に触れ、骨の合間に沿って緩慢に這うと、ぴくと捲簾の眉が動いた。酔うとキス魔ならぬ舐め魔にでもなるんだろうか。と、捲簾は呆れつつも悟浄を引き剥がすに引き剥がせず、冷えていた手は濡れた体温に征されてゆく。
 漸く唇を一度離したと思えば、すぐ悟浄は酒臭い息をついてふらふらと突っ伏した。左頬をテーブルに預けたまま焦点の定まらない眼で、しかしじっとりと舐め回すように、掴んだ捲簾の手を見つめる。
「捲簾の、手。すき」
 独り言のように、頭に浮かんだ感想が理性の網をすり抜けてそのまま口をついてしまうように。碌に呂律の回っていない声で途切れ途切れに悟浄は零す。
 唇で指の腹をついばんで。そのまま歯を立てないようにそろそろと第二関節のあたりまで吸い付いて。
「だって、この手はさぁ、」
 手の甲に浮き出た骨を愛おしそうになぞって。親指と人差し指の間の窪みに舌を潜らせて。
「……けんにいが、おれを、」
 絡めとって頬を寄せて。力が抜けきっていて甘く怠く段々と掠れてゆく声で、溜息に交ぜて。
「……悟浄?」
 様子を伺うように発せられた言葉は、しかし返答を得られなかった。ぷつんと電池が切れたように、悟浄が眠りに落ちてしまったからだ。
「おーい、ごじょー。そのまんま寝んな」
 ねじ伏せた手の甲に唇と鼻先をくっつけたまま寝息を立てる悟浄を揺さぶり、捲簾が呼び掛ける。
「……犯しちまうぞー」
 数秒の間。そもそも聞こえてはいなかったのだろうが、悟浄は跳ね起きることも手を離すこともなく、寧ろ無意識にか、その手を握る力を少し強めた。捲簾の頬に何だかよく分からない種類の冷や汗が伝い、口内には理由も分からず唾液が湧く。
「…………あーくそ、シャレになってねーっつーの」
 と、唾を飲み込んだ捲簾は自由な左手で照れたように口許を覆いつつ纏わりつく悟浄を振り払い、先程のとんでもない宣言を打ち消さんとばかりに大仰な動作で立ち上がった。体力にはそこそこ自信があるとは言えど、自分と大して変わらない程の図体にまで育った従弟が相手では抱え上げるのも一苦労だ。静かに上下する丸まった背中に手近なコートをそっと被せ、グラスを台所に下げた。わざと冷たい水で後片付けを始めたのは、ついでに一寸おかしくなっているらしい頭を冷やす為。しかし、湿っぽい声のリフレインは中々止んではくれなかった。
 ――けんにいが、おれを。
 久々に聞いた、その幼い呼び方。今でこそ世間の男兄弟とそう変わらず、生活時間はバラバラかつ連絡は最低限とドライな距離感で暮らしている二人だが、悟浄が独りで何も出来なかった頃――その呼び方を使ってくれていた頃――は、親族随一の世話好きと称される捲簾が随分と甘やかしたものだった。
 ――だって、この手はさ。
「……ちょーっと、教育方針ミスったかなー?」
 ミキシンググラスの水を切りつつ、捲簾は苦笑いを浮かべてぼやく。すっかり「親離れ」も済んだと思っていたのだが、多少酔った程度で困った甘えたがりの18歳児が姿を現してしまうものだから。改めて捲簾は二人で暮らし始めてからのことを顧みる。そしてその回顧はやはり殆どあの一点に、丁度5年前の春休みに絞られるのであった。
 9割は、リハビリと教育のつもりだった。つまり1割程度は過ぎた悪ふざけだったかもしれないが。




 悟浄が目を開けると、一番に視界に飛び込んできたのは広い捲簾の背中。ローテーブルには何やら資料が広げられているようで、彼の手元にはブラックコーヒーが半分ほど入ったマグカップがある。
「……いつ帰ったの」
 眠たげな声に捲簾は振り向くと、オハヨウと苦笑した。悟浄は知っていた。捲簾が近頃自宅にいる時分よく資料やPCと睨み合っているのは、悟浄の生活や中学校への編入の為の手続きや下調べだということを。一年ほど前、義母という身寄りをも失って実母の親類中をたらい回しにされていた悟浄を見兼ね、学生ながら親代わりを買って出た捲簾――悟浄にとっては兄のようだが――が、悟浄の為に進んで睡眠を削っているのだということを。
「また徹夜だろ。ちゃんと寝ろよな、捲兄」
「朝方帰ったら、人のベッドぶんどって熟睡してる困った子がいたもんだからなァ」
 冗談っぽく捲簾が言うと、悟浄はきまり悪そうに唸った。まるで迫力のない舌打ちを申し訳程度にかまして身を起こす。
「……悪かっ」
「で? なーんでこんなとこで寝てたんだ悟浄は?」
「っ、」
 捲簾が漸く身体を捻って向き合うと悟浄は起き上がりかけたまま身体を強張らせ、みるみるうちに赤くなった。
「……分かってんだろ、捲兄ッ」
 全て察しているくせに態々意地悪く訊く捲簾に、悟浄は半分やけっぱちで答える。とても自分からは言えないようなこと。何と言えば良いのか分からないこと。今までは「それ」をしてほしい時どうやって伝えていただろうか、と悟浄は少し考えた。行き着いた答えとして、ベッドから床に転がるように着地すると俯いて捲簾の袖口をくいと引っ張ってみた。
 捲簾は「マセガキめ」と笑うと悟浄の身体を抱え上げ、後ろから包んでその頭を撫でた。悟浄が眼を合わせたがらないのを知っているから、捲簾は後ろから抱き締めるようにしてやる。悟浄の方も、背中に感じる捲簾の暖かさと大きさに安心するからこそ、この時間がどうしようもなく好きなのだ。
 悟浄の身長はと言うと未だ170センチに届かない程で、ついでに背ばかり先にひょろっと伸びて体重が追いついていないものだから、捲簾より二周りほど小さく頼りなく見える。捲簾はその薄い胸や腹をさするように撫で、楽しそうにからかう。
「まぁたタテに伸びたなお前。ちっとは筋肉もつけろよ?」
「うっせーな、これから付けるっての」
「はいはい。この調子じゃあと一年もしねえうちに背も追いつかれちまうんだろーな。……気づいたら声も拾ってきた頃と全然ちげえし。はー可愛くねえ」
「……カワイイとか、思われたくもねーし」
 微笑ましげにくすくすと笑う捲簾の声が、少しずつ薄れてゆく。軽く叩くようにしながら腹を撫でていた掌は、煽るようにその触れ方を変え、慣れた手つきで徐々に下方へ向かう。
「……っ」
 大好きなその手が部屋着のスウェットの上から優しく下肢を撫でると、悟浄は動けなくなる。なにも、喋りたくなくなる。そして指がゆっくりと這うごとに洩れてしまう息と時折驚いたようにあがる声がなんだかとても情けなく、且つ後ろめたい気持ちになる。ワルイコトだと感じてしまう。性的な衝動や行為への嫌悪が彼の中に未だ燻っているから、なのだろう。しかし、その罪悪感と背徳感が却って快感を増幅させる材料になってしまったのはいつからだろう。捲簾は多感な時期にさしかかった少年の感覚を無意識に司り、身体も心も潤してしまう。
 彼は悟浄にとって、単に親代わりの親戚と言えるものではなかった。それは何も人に言えない疾しいことがあるから、というわけではなく。遣り場を失った「兄」への憧憬と「母」への恋慕を、一手に引き受けて充たしてしまうような絶対的な存在とでも言うのだろうか。悟浄本人の自覚はきっとそこまでは追いついていないが、ともかく背後で息をするそのひとは、今の彼の世界の、すべてだった。
「あ、」
 潜り込んだ掌が先端に触れる痛みにじっと耐えながら、悟浄は幾度か捲簾を求めたときのことを思い出していた。よく考えてみればその殆どは夜で、自分も寝ぼけたふりをしていたり捲簾も酔っていたりすることが多かった。昨夜だって帰りの遅い捲簾を待ち侘びている間に眠ってしまったのだ。と思うと悟浄は改めて、昇りきった朝日に照らされる部屋の中で素面の捲簾に身を任せていることが大層恥ずかしくなった。頭のどこかをぐるぐる回して考える。この後どうやって誤魔化せばいいか、二度寝して空気をリセットするしかないか、などと。
「――安心してるよ。ちゃんと、感じられるように育って」
「へ?」
 すっかり別の方へ向いていた悟浄の意識が、ふいに引き戻される。近くに居ても聞き取れるか分からないぐらいの、ほんとうに小さな呟きだった。訊き返す悟浄の声を捲簾は聞こえなかったように受け流し、休めていた左手をそっと内腿に滑らせる。そのまま、する、と。ごく自然に後ろへ回った捲簾の右手に、悟浄が驚いて素っ頓狂な声を上げた。
「ちょちょちょちょっと待て捲兄」
「んー?」
「なっなんでそんなトコ触んの!?」
「だーいじょぶだって、普通だから」
「いや汚えだろ!」
「蠕動運動ってのがあってな、意外と綺麗に保たれてるもんなの」
「ぜん……? うぁ、」
 つつー、と。粘液を掬った指が普段の位置を離れ、悟浄にとってはとんでもない部位に及ぶ。濡れたそれが円を描くように優しく表面を撫で回す。凹みに沿って少しずつ少しずつ、侵入する。そこに性感があることも指を挿し入れるという行為があることも知らなかった悟浄は、ただただ穿たれたそこから電流が走ったように全身をびくびくと震わせ、歯を食い縛って溢れ出す何かを健気に堪えるばかり。窮屈な布の中で膨らんだソレはちょうど捲簾の手首の内側に沿ってぴったり貼りつく形になり、段々と早く脈を打つ。
「……脱ぐか? 濡れてるしキツイし、俺も微妙にやりづれぇ」
「い、いい」
 ぶんぶんと悟浄は首を横に振った。触れられたあちこちがどうなってしまっているのか、捲簾の手がどんな風に動いているのか、その目で確かめる勇気は悟浄にはまだなかった。という理由も勿論だが本当のところは、見えていないほうがその感覚が鋭敏になることに密かに気付いてしまったらしい。
 更に細い身体はこの行為の意味を、からだの中に捲簾の体温が這入ってくる、その心地良さの理由を感覚的に解り始めていた。どこか後ろめたい疑似体験を経て、悟浄は普段とはまた違った気持ちで上り詰める感覚に蝕まれてゆく。
 ああ、溺れる。もう、墜ちる。
 力が抜けてゆく感覚の中で閉じかけた紅い眼が最後に映したのは、積み重なった中学校の資料。
 家庭の事や生まれ持った髪の色で苛められることもあるだろうと、捲簾は悟浄のことを大分心配していた。通信制だとか家庭教師だとか、他の形もあると提案して。
 それでも悟浄は大丈夫だからと強がって、自分で編入を決めた。だって、本当は学校で同年代の友人と遊ぶことを知ってほしいと捲簾が思っているのを知っていたから。他の手段より家計を苦しめないことも解っていたから。そして何より、自分も外の世界に出ないと、いつまで経っても捲簾から離れられないと思ったから。そう、悟浄はたぶん、捲簾が思っている程に純粋で考えなしの子供ではなかった。
 あと一週間で悟浄は中学二年生に、捲簾は大学三回生になる。新しい生活が始まるのだ。
 暇と欲を持て余した二人きりの春休みに染み付いたこの甘く淫らな習慣に、生々しい実感を与えてくれる手の中に、いつまでも耽ってはいられない。これ以上この優しいひとに対して妙な想いを募らせても仕方がない。それは悟浄も十分に分かっているのだけれど、もう少しだけその暖かい心と身体に甘えていたい気持ちはどうしようもなく溢れてくる。
「…………けん、にぃ……っ」
 もう一度指が動くと、反り上がった状態で手首から腕にかけて密着したソコが小さく弾んで、喉が渇いた喘ぎを洩らす。案外滑らかなその肌に熱を吐き出す瞬間、悟浄はきつくきつく目を瞑った。いつの間にか浮かんでいた雫を、隠すように。

 少年は辛いわけでも自分を不幸と思ったわけでもなく、寧ろ生活そのものには何の不満も無かったのだけれど。
 初めて穿たれたその日から数日は、何故だかじわじわと痛かった。下半身よりも、上半身の奥の奥にありそうな、なんだか言い表せない部分が、きゅう、と痛かった。





2013-04-15