確認しよう。僕が一人暮らしを始めたのは大学への飛び入学が決まって間もなく父が亡くなって独り立ちの機会を得たからであり、また大学に通いやすい位置に定住する為でもある。
「えぇとまだ14歳ですよね、学校に通いながら自分を養う余裕なんてあるんですか? 心配ですよ」
「15歳です。アルバイトのあてもありますし奨学金なんかも出ますし、金のかかるような趣味や拘りも別段ありませんし」
「ねえ、ここ一人にはちょっと広いでしょう? 使わない一部屋を貸すだけで家賃半額ですよ、出血大サービスじゃないですかぁ」
 だというのに、この人は何なのだろうか。
 勿論誰なのかは知っている。色々な意味で有名な従兄の天蓬。14歳で飛び入学したくせにだらだらと親の脛を齧り尽くし大学に居座った結果しびれを切らした実家から資金援助を断たれ、漸く卒業したものの家には帰りづらくなっていたらしく、暫くはネットカフェや知人の家を放浪していたものの、今朝漸く荷物を纏めて家を退いたのだと先ほど一息に説明された。
「何故ここなんですか」
「はぁ、ぶっちゃけ都合が良いんですよ。大学の時からの恋人の家がすぐ近くで」
「…………」
 へらぁ、と。常よりは少し胡散臭さの抜けた、しかし惚気るような色が却って癪に障る微笑を浮かべ、天蓬は率直に言い放った。
 恋人なんていたのか。こんな無闇に頭が回るぶん質が悪い手のかかりそうな奇人に何年も付き合っていられるなんて、お人好しに尽きるというか弩級のマゾヒストというか、よく言えばさぞ甲斐甲斐しい女性なのだろうか。似たもの同士のぐうたらという線も捨てきれないが。
「一部屋、余ってる処でいいんです。辛うじて眠れて本を置けるスペースがあればそれで」
「本って……」
 そこで初めて、僕は来訪者の姿を頭から爪先まで見渡した。背には連泊キャンプにでも行くような大きなスポーツバッグ、右の手首には黒い手提げ鞄、左の手元には茶色の紙袋。これでも厳選したんですよ等とぼやいているが、まあ彼の蔵書がもっと沢山あることは想像に難くないし、自分も本を読む方だから気持ちは分かる。無論それを抱えて唐突に押し掛ける心情は理解しかねるが。
 ふと紙袋から垣間見えた裏表紙にはシールが貼られ、覚えのある学校の名前とバーコードが印字されている。
「それ、大学の」
「あぁ、借りたままだったみたいで。でも僕半ば押し出されるように卒業したもので、これ以上うろつける身分じゃないんですよねぇ」
 それは所謂「借りパク」とかいう行為だが有り体に言えば横領だ、つまり、
「犯罪じゃないですか」
「えー、じゃあ代わりに返してきてくれませんか。今から大学でしょう?」
「はい? ……うわっ」
 迂闊も迂闊だった。余裕を持って出ようとしていたのに、気がつけばもう10分近く足止めを喰らっているではないか。
「大学の物はこの袋の分だけ?」
「えーと……どーだった、かなぁ……適当に詰めてきたんでちょっと…………あっ、でも卒業直前に掃除されたんで、恐らく図書館の本は一箇所に固」
「あぁもういいです貸して!」
 焦れて一先ずその袋を奪い、天蓬をおいて僕は駆け出した。走っているあいだも上手く利用された悔しさに頭を掻き毟りたい気分だったが、図書館の本が盗られたままでは僕だって困るから仕方無い。
 途中で飲み物だけでも買おうと、駅前で青い看板を掲げるコンビニに入った。レジ前の飲み物の棚に向かいつつ辺りを見回すと、平日の昼前で客は少なく店員もレジと売場に一人ずつ。そのうち売場に飲み物を並べている方がなんだか矢鱈と目を引いた。
 何しろ赤い。頭が赤いのだ。
 その身体が動くたび少し高い位置で纏めてある毛束が揺れるのが、何かの尻尾のようで妙におかしい。歳は少し上に見えるが、あまり縁のない人種だからよく分からな――
「あ、」
 緑茶のボトルに指をかけた瞬間。左手にあった質量の傾きに気付いた時には、もう遅かった。
 重さに耐えかねたのだろう、紐が通っていた四つの穴のうち一つが上にめりめりと拡がってゆき、破れて紐がすっぽ抜けた。傾いた本のタワーから、天辺の一冊が零れ落ちて床に叩きつけられる。
「……大丈夫?」
 ぱ、と視界の隅に明るい色が過ぎった。尻尾、だ。ガラの悪そうな店員が、意外にも親切に落ちた物を拾ってくれる。そう、ちょうど彼の足元に滑って行った本を。
『夢枕桃色四十八手』を。
「……」
「…………」
 どうしてくれようか、あの男。
 終始無言でブツを差し出す店員。僕は同じく終始無言でしかと受け取り、持ち手を欠いてその機能を失った紙袋を丸ごと左腕に抱え込み、右手に持っていた緑茶だけをすばやく会計し、早足で店を後にした。願わくば二度とここには来たくない。

 さて。図書館の隅の人気の無いスペースで、混沌とした袋の中身を一冊一冊洗い出すことにした。先の本は驚いたことに正しくここの蔵書だったのだが、他にも妙な本が紛れ込んでいる可能性は大いにある。このまま返却箱に流し込むのは危険だと感じたのだ。
 本を丁重に取り出しながら、タイトルと背表紙にある図書館のラベルを確認する。文学、経済書、哲学書、哲学書。一冊また一冊と。文学、文学、図録、哲学書。そろそろ最後だ。文学、哲学書、台湾四十八手、文学。
「……なんだ今の」
 思わず声が出た。
 開いてみれば必要以上に躍動感のある体位のイラストとその説明文が延々と続いていたのだが、見るに耐えず途中で閉じた。図書館のシールは見当たらないから、流石にこれは紛れ込んだ天蓬の私物だろう。いや、そのほうが身内からすれば問題かもしれないが。
「……ああ、もう、知りません」
 呆れきった溜息を吐いて立ち上がり、不本意ながらその本だけを手持ちの鞄にしまって残りをこっそり返した。さあ、早く自分の用事も済ませないと。
 あれもこれも下らない。些末なことだ、そのうちどうだってよくなる。よく行っていたコンビニの店員の前で誤解されそうな本を落としてしまったことも。従兄の趣向が予想以上に多岐にわたりかつ斜め上にぶっ飛んでいたことも。きっと明日には忘れるだろう。

 帰る頃には時間にも心にも余裕が戻り、辺りの風景を眺めながらゆっくりと歩を進めた。漸く、身をもって春を実感する。自宅までの道のりには結構な本数の桜が植わっていて、そこから風の勢いに乗って次々と生き急ぐように花弁が舞い散っている。
 ふいに掌で空を切り、すぐに閉じた。舞うそれを掴もうとなんてしたのだろうかと、並ぶ四本の指を見つめてからやっと思う。何の期待もなく開くと、まんなかに薄紅が、ひとひら。
「……あ」
 思わず進めていた足を止める。と殆ど同時に、強い風が急に吹きつけて花弁を攫った。嘲笑うかのようだった。小さく、また小さくなって、交差点の向こうに消える。こんなことも、きっと明日には忘れるだろう。どうせこの先の自分には、何の関係も無いだろう。

 とりあえず一つだけ、大きな変化といえば。
「あの」
 呆れを隠し切れない声で呼びかけると、マンションの部屋の扉に凭れかかって眠る男が緩慢に目を開けた。
「……一応ご近所の目を考えてくださいよ」
「春眠暁を覚えず、ですよ。あんまり良い気候なもので」
 目を擦りながらむにゃむにゃ言う天蓬に、気になっていたことを問い質す。四十八手とかなんとかも正直気になってしまうが、そこには触れない方が賢明な気がした。話すべきことは別のところにあるのだ。
「家賃を半分負担すると言い切るからには、定収入はあるんですか」
「貯金は結構ありますよ?」
 つまり定収入は無いらしい。
「最近はあまり高い本も買ってませんでしたし、卒論と一緒に書いてた小説の賞金、とかも……えぇと、切り詰めれば一年は暮らせますかねぇ」
 天蓬はどこからともなく通帳を取り出し、さらりと凄いことを呟いた。
「なら、なんで態々僕の部屋に。このマンションでもまだ空きはある筈ですけど」
「さあ、なんででしょう」
 ――心配ですよ。
 やはりどこか態とらしい笑みで問い返され、数時間前の天蓬の言葉が蘇る。捲し立てる台詞の中に巻き込まれたついでのようなその呟きが、貴方の本音だったとしたら。
 一瞬浮かんだ考えをすぐに打ち消した。この人に限ってそんなことは有り得ない。それに情なんかに流されるほど素直で愚かな性質は持ち合わせていない、けれど。
「…………本」
 散々ぐるぐると迷って搾り出すように一言だけ言うと、天蓬が徐に視線を寄越した。最前まで眠気で湿ってぼやけていたそれは、いつの間に人を見定めるような強烈な眼光を取り戻したのだろうか。思わずもう一度ゆっくりと息を吸う。圧されないように凛とした声で、
「他に、どんなの持ってるんですか」
 擦り切れた紙袋の中に満ちていた、先人の思考の塊。膨大な文字の海。それらはどれもこれも――時折浮遊していた奇妙なものを除けば――僕の知識欲を刺激するもの、そして、僕がまだ辿り着けていない深さに在ると感じられるものだった。
 この人自身にさほど興味はないけれど、この人の読む書物には興味がある。
「挙げ切れませんよ。一先ずここに持ってきた物は是非とも一読を」
 細長い指の差す先には、ドアの脇に置かれた手提げ鞄とスポーツバッグ。退屈に生きる僕に様々な世界を間借りさせてくれる「本」の溢れる容れ物。
 貴方の世界を僕に少し分けて。
 素直にそう思われたことも、天蓬の右頬に憎らしい薄紅が貼りついていた事も。どうせ明日には忘れるだろうと思っていた。




2013-05-18