靄がかかる。
 低血圧でもなく朝にはそこそこの強さを誇る俺でも、そうすぐには状況を把握できない。特にこんな酒でふやけた頭じゃ、数秒のあいだは夢と現実の境界で反復横跳びでもしているような心地がする。
 とりあえず分かったのは、場所が自分の部屋ということ。昨晩どうにかベッドの脇までたどり着いたものの、その上に身を預ける直前に睡魔に負けて床にぶっ倒れたらしい。そうそう、悟浄は確か学校の合宿で居ない。そこまで考えて、さて、ひとつおかしなものが目の前に横たわっている。というか全身に圧し掛かっている。横向きに寝転がった俺の胸に深く頭を埋め、肺を圧迫する勢いで抱きついてくるその図体は、
「……夢」
 じゃない。思い出した。多分昨夜は飲み会で、多分こいつが結構酔っ払って、多分「終電逃しちゃったんですよお」とか泣きつき始めて、多分流れで俺が担いで帰ることになって、現に今二人してここで固まって寝ている、と。
 そもそも目が覚めたのもこの息苦しさの所為だろう。腕はきっちりと腰の上あたりをホールドしていて、もはや人というより抱き枕同然の扱いだ。そのうえ何故か曲げた片脚の膝頭は俺の脚の間に割り込んでいて、ちらちら当たる部位がどうも危うい。
「おい、こら」
 埋もれた頭を天辺から掴んで引っぺがすと、ごく近くに穏やかな寝顔が現れる。整っているとはかねがね思っていたが、こうして至近距離で見下ろすと殊更に、睫毛の長さや肌の生白さが際立って見えた。美しいほうだ、多分、世間一般からしたら。なのにそれを保つことに頓着しないから持ち腐れもいいところである。
 朝は肌寒い時期になってきた所為か、だらしなく涎の跡がついた唇は少し青みがかっていた。血行が悪いのか。いつかの朱色とは違っていて――あれ、こいつの唇なんていつ見たっけ。なんとなく視線をそこに留めていると、へばりついた身体がもぞもぞと動き出した。
 あ、起きる。
 悪いことをしていた訳でもないのに一瞬心臓が跳ね上がり、瞳の色が現れると同時に――異変が起きた。
「あ」
 寝ぼけ眼の天蓬は暫しぼうっとしていたが、十秒ほど間を置いてから漸く「あ」と馬鹿みたいに復唱した。そして自分の膝頭に、と言うよりそれを押しつけている部分に視線を送る。
「……わー」
 やめろ見るな見ないで下さい興味深そうに刺激しないで下さい。
 今そうなったのは偶々だ。つーかこの、さっきから態と扱いてんのかってぐらいぐりぐり擦れてくる誰かさんの横暴な膝の所為だ。男に絡みつかれて勃起する趣味なんて生憎ねえ。
 弁解するのも却って怪しい気がして黙り込んでいると、天蓬が、笑んだ。馬鹿にするようなくすくす笑いというよりは、ふふっ、といった感じの不気味な微笑。どうせなら笑い飛ばすか軽く流してほしかったんだが。
「朝から元気で」
「ほっとけ。ていうか離せ」
 ガキ臭く言い返す俺がおかしいのか、今度こそ天蓬が間違いなく声を上げて笑う、と同時に腕の力が緩んで俺は漸く上半身を起こした。全くいつにも増して失礼極まりない。
 しかしまあ、そういえばこいつと下世話な話をした覚えはあまりなかったか、とふいに思う。堅物だと思っていたわけじゃない。天蓬の蒐集物には小難しい本に混じって「そういった」変な古書、漫画、時にはゲームソフトが結構な量紛れているのは承知だ。――寧ろこっちが危ない領域に引きずり込まれそうな恐怖を察知していたのかも。とにかく俺は奴の性的嗜好を決して十分には知らない。好きなタイプやら経験やら、そもそもちゃんと現実の女に興味があるのかどうかすらも。
「そういうお前は」
「え?」
 寝転がった天蓬はぽかんとしつつ意図を把握したようで、――ですか、とぽそりと呟いた。まだ若干むにゃむにゃとした声で。自慰、というようなことを言ったらしい。あちらもゆるりと半身を起こし、俺の向かいに座り込むと、口元に手を当てて考えるようなポーズをしてみせる。
「全く、ないわけではありませんけど……なんせ体力が衰え気味で。すぐ疲れちゃうんですよねぇ」
「まだ若ぇだろーが……何、やっぱ二次元で抜くの」
「……最近は、そうでも」
「ひととは?」
 ややあって天蓬が息を呑んだ。瞬間、何故か背筋に悪寒が走った。
「……やぶさかではありませんよ?」
 どことなく空気が湿り気を帯びる。冷たいような熱いような声の残響が、耳の奥を揺らす。反射的に後じさった身体がベッドの横腹にぶつかると、半端に開いた脚の間に天蓬が追って滑り込んだ。指先がつんと張り詰めたところをつつく。
「な……」
「それ。ラクにしましょうか」
 僅かに上がった口角と鈍く光る瞳が見たこともないほど艶やかに思えたのは、コッチの都合の所為だろうか。そんな表情に気を取られている間にも、下でジッパーの下りる音が続けざまに二度鳴った。逸らそうと足掻いた視線の行き着いた先はローテーブルの上へ、覆いかぶさる身体の向こうにあるボックスティッシュへと自然に滑る。まだ残っているのを確認した瞬間、諦めたように自然と瞼が下りた。情けないことに、もう意識をソレ以外に遣るなんて不可能だ。

 天蓬の右手が二本を束ねるように握り、先を濡らすものを使って擦り合わせる。ぬめりを帯びて押しつけられる感触はすっかり堅くて、いつの間にこんな、とか問いたくなるが忙しない手に翻弄されてそんな余裕もない。
 つい気になって下を見やったものの、乙女でもないのに一寸目を覆いたくなった。生々しいのがふたつも雁首揃えて押し合い圧し合いする様なんぞ直視できたものじゃない。しかしピントをずらしてみれば、それらを纏めて遊ばせる細長くしなやかな指はやけに色っぽく見えて、正直困った。天蓬の肌、特に末端は少し冷たい。ひんやりとしたその指先がギリギリのところで触れて、根元から辿って、幾度となくいたずらに挑発する。そして先端を転がすように包み込む掌は、それより少し温かい温度で俺を惑わす。
 何だこれ。二人して寝ぼけたまま流れ込んだような形だったが、寧ろ意識は起きてから一番鮮明な頃合だったろう。なのに今はまた夢の中に逆戻りしてゆくかのように気持ちよくて、夢と現とが身体のなかでどろどろと混濁していて。一点に与えられ続ける、だるくゆるゆると続く粘っこい感覚は不思議なほど快く、すっかり脱力して拒む気も起こらない。こーゆーのをナシクズシとか言うんだろうか。
「……あ」
 ふいに抜けた間抜けな声に、天蓬の手の動きが一瞬止まった。
「出る、かも」
 と聞くや否や指の締めつけは弱まって、焦れったく緩やかな動きへとシフトする。案外と言うか案の定と言うか、意地の悪いやつ。そう毒づいたのが聞こえた訳ではないだろうが、天蓬はやや不服げな声で俺を嗜める。
「そんな色気の欠片もない。もっとソレらしい反応ないんですか」
「色気、て……要らねえだろ、んなモン」
「だってセックスってそういうものでしょう?」
「知った風な……ん? え、ちょ、待……ッうぁ」
 聞き捨てならない単語があったが、問い質す声は思わず途切れた。急にまた激しい刺激が来て、容赦なくその堰を切ったから。
 はあ、と深く息を吐く。――見られたな。顔とか、色々。なんかもうどうでもいい。
 吐き出した後の身体をじわじわと襲う虚無感に反して、乱れた拍動と呼吸は落ち着いてくれない。すっきりしてきた頭からどうにか言葉をひねり出した。
「っ……はぁ、いきなり、お前……っで、なに、せっ?」
「ん……じゃ、何のつもりだったんですか」
「ナニって慰め合いっていうか、あの……いれて、ねえ、し」
「それはもうちょっと考えて、身体が慣れてから……って事でしょう?」
 ――はい?
 人の混乱をよそに、天蓬はまた手を動かし始めて喉で喘ぎだす。萎えかけたのと一緒に揉まれて引き攣るソレをまじまじと見てしまうが、なんというか大きさも形も、へたすれば存在そのものが、軟弱そうな面にひどくそぐわない。イメージが繋がらない。そっと指で触れてみると、ひゃぁん、だかなんだか聞いた事もない嬌声を上げて天蓬が身悶えた。体が、がくんと揺れる。とろけそうな淡紫と目が合う。上気した頬の下で半端に開いて息を洩らす唇が、すっかり薔薇色に戻っていたのに気付いた。そのとき、やっと。整った大人しそうな顔つきと、誰のだって概ねグロテスクで皺の寄ったぬらぬら光るソレが、初めてまともに結びついたような不思議な心地がした。更にそれは確かに少し、妙な興奮を覚えさせるもので。思わずがっと掴んで包み込むと濡れそぼった天蓬がどくどく脈打って暴れて、啼いて、間もなく粘っこい熱が手の中に溢れた。
「…………つかれ、」
 た、という音は殆ど溜息の中に消えた。ぐったりと脱力しきった身体がもたれかかってくる。とにかく濡れたままぺっとりとくっついたそこが気持ち悪くて、天蓬の斜め後ろにある箱を顎で示した。
「……それ、取って」
 天蓬は息を整えながら身体を捻ると、上にひらついていた一枚を引き抜いて拭きだした。もう一枚よこせと言いかけて、箱の上に何も出ていないのに気付いた。
「……え、もう空?」
「みたい、です」
 平然と言いながらジッパーを引き上げる天蓬に、一層深い溜息を禁じえない。クローゼットの奥に予備があった気もするが、このまま取りに行きたくないしコイツに探させたら雪崩が起きそうだし。仕方なく、天蓬が丸めているティッシュに目を遣る。
「……もーいいわ、貸して」
「ふ……なんか、変態ぽいですねぇ」
「お前ちょっと黙れよマジに……仕方ねえだろ」
「ええ。仕方ありませんね」
 言うと天蓬は徐に姿勢を低くして床に這い、きまり悪くてそこを覆っていた俺の手を無理矢理退けた。動揺する間もなく、つまむように指が添えられて持ち上がる。
「てん、」
 何の抵抗もなさそうに、ぺろりと。天蓬の舌が濡れたのを拭き取るように二、三度ゆっくりと舐めた。まだ荒く熱い吐息がそこらにかかる。更に先端を浅く咥えると卑しく吸いついて滴る液を浚って、大したことでもないように淡々と飲み込んだ。
 変態ぽいなんて、こっちのほうが余程そうだろう。
 天蓬はそこから唇を浮かすと今度はさっき自分が濡らした俺の掌と指をうるさく舐りながら、上目遣いにじっと見上げてきた。逃げられないようなひたむきな視線と共に、どこか冷めた言葉を投げかけられる。
「っん……もてるんですから、よくされてるでしょう? コレぐらい」
 言いながら天蓬は半身を起こし、しかし指でしつこく下への愛撫を続けようとしやがるので押し返してジッパーを閉じてやった。
「……されねーよ、普通」
 手で触るのとは訳が違う。それに附随する匂いも味も、衛生的な問題にしても、余程信用している相手から要求されなければできない行為、だと思う。店の女でもなければ態々施すサービスじゃない。それに求めたわけじゃなくあちらから勝手に口に含んだのだ。かたちの良い、かさついた唇を濡らして、いとしげにキスするような自然さで。まだ自然にキスしたことすらないのに。いや、「まだ」って何だ。
 天蓬はそうですか、と疑い気味に零すと、赤い舌を覗かせて白く汚れた唇をやらしく舐めた。潤って朝陽に照りはえる、その朱にはやっぱり覚えがあった。記憶の氷が徐々に融ける。
 どうも、不自然なキスなら既にしていたらしい。
 昨夜は皆かなり酔っていたしどういう経緯でやらされたのかも朧気だが、自棄気味にぶつけた唇の隙間から何故か舌まで突っ込まれて、絡め合った十秒間ぐらいのことだけはちゃんと思い出せてしまう。とりわけ触覚は、鮮明に。あの時こいつの唇を濡らしていたのは、どちらのものか判らなくなった唾液と、白く濁った吐きそうに甘い酒。それを舐めとったときの仕種は丁度さっきのお前のような、
「捲簾」
 か細い呼び声に意識を引き戻される。色々落ち着いた天蓬は段々しおらしくなってきて、今はなんだか寂しそうな顔つきで俺の方を見ている。何なんだ。起きてから予測不可能な事態続きで、乱されっぱなしのペースがまるで取り返せない。
「本気、ですから」
 分かってる。気紛れや悪乗りじゃないことぐらい、十分思い知らされた。恐らく天蓬はあのキスをとっかかりに俺を籠絡してしまおうとここに転がり込んで、俺はその罠に見事引っかかったわけだ。
 でも本当のところは? 出会って半年、本当に今まで一遍も、こいつの視線に並ならぬものを感じたことはなかったか? 何の警戒心もなかったのか? 今となっては自信がない。
「……貴方にね、さわられたりしたら、もう死んじゃいそうに気持ちがいいんです」
 とんでもない殺し文句だ。今までもこれからも、どんな女にも言われることのないような、そんな台詞をどうして良い友人に言わせてしまっているのか、俺は。半ば無理矢理襲われたいわば被害者なのに、何故かこっちが罪悪感を感じてきた。
「近ごろ妄想が止まらなくって、昨夜のでもう、普通にしてられる余裕ないなって……ねえ、やですか、こんなの」
「…………」
 意地を張って、嫌だ、とひとこと言ってしまえば、どんなに世界が違っていただろうか。
「キライに、なりましたか」
 そんな狡い訊き方で俺を動けなくしてしまう。ああ、分かってはいた。俺はたぶん途轍もなく、心底、異常なまでに天蓬というやつに甘い。
「……べっつに。お前のシュミがおかしいのは今に始まったことじゃねーだろ」
 ただ冗談めかしてそれだけ言うことに、どれだけのエネルギーを使ったか。馬鹿みたいに顔が熱い。天蓬は暫く目をぱちくりさせていたが、やがて素直に柔らかく笑った。そんなにはおかしくないですよー、とか俺に向けて中途半端なフォローをしやがるので手の甲を抓ってやった。
 たぶん既に負けていたのだ。こいつの指とか舌とか――その前に、はじめの唇を、とても不快とは思えなかった時点で。
「……よかった」
 甘く囁く声は、しなやかに耳元に擦り寄ってくる。そして俺はまんまと誘いに乗るだろう。そうやってこの男に絆されることに、なんだかんだと悪くないものを感じながら。
 天蓬は綺麗な顔を寄せて俺の唇を焦れったく撫でまわしつつ、「微笑んだ」。朱い唇の隙間から、今にも俺を甚振らんと構えた舌が覗く。最前まで泣き出しそうに潤んでいた殊勝な瞳はどこへやら、その視線は射抜くように強烈で、黒い瞳孔の奥の奥まで怪しい炎が渦巻いていた。久方ぶりに、背筋がぞっとする。
 ――こいつもしかして、ちゃんと自分の顔の「使い方」を分かってるんじゃ。
 それでもまあ、化かされるのもまた一興か。少なくとも唇を離すまでは、どこからどこまで演技だったのかは考えないほうが幸せだろう。
 口許を弄くっていた指が離れると同時に、どちらからとなく唇をあわせた。また酔いで少し疼きだした頭と、酒気を帯びた息と。ロマンチックなんてぶち壊しなのに、二人の記憶に随分と居座ることになる、そんな朝の思い出。





2013-06-11