「――――」 僕が決死の覚悟で放った言葉に場は数秒凍りつき、やがて。 「……あー……まぁ、できる、かも」 あまりにもあっさりした返答に一瞬ぽかんと呆けたのち、強かに心臓をたたかれた。 「で……でも僕よく分かってませんし、加減とかできませんし、貴方のほうが大変ですよ?」 「そりゃ別にイイっつーの。……女みてーにされるほうが傷つくってかムカつくわ」 そんなふうに、やけに強気に吐き捨てられた言葉に。 遠慮なく乱暴にしたい気持ちより、壊れ物のように扱って羞恥に身悶える貴方を見てみたい気持ちのほうが勝った。 目を覚ますと、ごく近くで翠がかった瞳が心配げに俺を覗き込んでいた。あれ、とか呆けた声を発しかけたところで、じわじわと状況が思い出される。羊の皮被った狼さんに食われちまったんでしたっけ、俺。えらく長丁場だったのか身体は疲労を訴えているが、途中からあまり記憶がない。 とは言えど。こういうと何かおかしいが、コイツが泊まりに来ると決まった時からそういう覚悟はできていたように思う。そのぐらい、この関係が尋常ではない自覚はお互いあったわけで。だからってあんなじっくり丁寧に嬲り殺すみたいな焦れったい仕打ちは本気で舌噛んで死んでやろうかと思う程つらかったのでご勘弁願いたいが。 「ごじょ、う」 いちばん初めに八戒が発したのは、触れてはいけないところに恐々と触れるような、どこか弱気な声だった。嫌味のひとつも言ってやろうとしたのに出鼻を挫かれてしまう。軋む身体をシーツの上に起こして目線で続きを促すと、少し俺から離れた八戒は大きく息を吐いたのち訊いた。 「えっと……その、経験が?」 「は?」 「だってなんか慣れてた気がするんですけど、その…………うしろ、が」 「……っ、え」 思わず微妙な間ができてしまったのは、疚しいところがあったからだ。 まだどこかで燻っていたのかもしれないある時期の記憶が、ふっと蘇る。何年も前の、幾度かの。ただ質問に対しての答え自体は明白だ。 「ッ、あってたまるかっつのヤられる経験とか! お前が初めてに決まってんだろ!」 「……」 「…………」 面映ゆい沈黙が流れる。みるみる上気する八戒の顔を見ていられず目を逸らすが、自分も九分九厘そうだと気付いて即座に顔を覆った。同時にあっちも俯いた。ちょっと死にたい。 「……じゃあ、どうして」 変わらず弱気な口調ながら八戒は、負けじと意志のこもった目線を上げて懸命に追及してきた。どばっと堰を切ったように記憶が溢れ、旧い映像が途切れ途切れに脳内で再生されてゆく。徐々に要素を増やしながら。耳を擽る低い声。ひとりでに体温の上がる感じ。 「そりゃホラ、あの」 それこそ女を扱うような、嫌味たらしいほど優しく愛おしかった、あの人の―― 「……指、挿れてた、だけ」 嘘ではない。割と重大なところを意図的に省いたが。 「や、風俗であんじゃんそーゆーの。ちっとハマっちまって」 「……もしかして、『捲簾』さんに?」 「、」 見透かされた。と感じたのがたぶん思いっきり顔に出た。カマをかけられただけかもしれないのに。 そもそも多少後ろめたい事実はあったにせよコトが起きちゃいないのは確かなのに、無闇に隠し立てする必要ってのは何だ。分かんねえ。でも今さら取り繕うことを諦めるのも難しく、態とらしく額を押さえて深く溜め息を吐いてみせた。 「あっのなァ……親みたいなモンだって言ったろ? ありえねーっての」 「……はは、ですよねぇ」 あぁ僕も従兄と住んでるんですよ、と八戒はぎこちなさげに話題をずらし、最近の自宅での話をした。あまり身の上を語るほうじゃないから、どことなく新鮮な気持ちで――少なくとも、過去じゃなく「今」の話をされるのは初めてな気がした――聞いていた。僅かでも踏ん切りがついてきたのなら、それは悪い事じゃないだろう。縛られたままじゃ身動きもとれない。 また声が途切れると、ベッドの上で並んで座っていた八戒がふいにそっぽを向いた。が、怒っているわけではないらしい。俺の背に背を預けるように合わせて膝を抱えると、おもむろに片方の掌を重ねてきた。心配になるほど冷たいそれは多分、小さく震えている。 「なーに」 「いえ、ちょっと」 こいつの恋人がいなくなった日の話を思い出した。 漸く手に入れられたと、ひとつになれたと、そう思った次の日の朝に亡くしてしまったのだという。あの電車に、彼女だけが乗ってしまったばかりに。それで今、八戒は改めて喪失への恐怖に苛まれているように見えた。 初恋は永遠だという。死者は近しい生者の心のまんなかに喰らいついて離れないという。それらが同じ人間なら一体どれほどの深傷を負うか、分からない訳はなかった。でも俺は間を置かずに捲簾に逢ったから――じゃあこうして八戒と一緒にいるのは、まるで捲簾が俺にしてくれた親切の再演だ。勿論それだけの理由で身体を明け渡すなんぞ有り得ないし、平たく言えば好意を抱いているのが大前提だが。 肌寒い空気の中で重なった生あったかいところだけが汗ばんでいる。何か喋ろうとしたところで起き抜けから喉が渇いていたのを急に思い出し、被さった掌をすり抜けて立ち上がると、息の詰まるような執着から逃れた心地がした。こんな申し訳無さそうに冷えた手のどこからそんな恐ろしさを感じていたのか分からないが、カラの空間に放り出された掌は漠然とした虚無感に打ちひしがれた。もしかしたら少し束縛されていたいのかも、なんて、らしくもない。 「……ま、心配すんな。そうそう消えねぇよ」 態と気障な調子で呟いてみても、八戒はくすりとも笑わない。かわりに安堵したような溜息を洩らして、優しい口調で応えた。 「……ええ、わかってます」 声色は緊張も悲愴も含まず柔らかくほぐれていて、なのにその表情は見えなかった。 僕より少し大きな身体の、けれど思ったよりは薄い腰を漸くとらえてみたとき、様々な緊張と不安を貫いて真っ黒い疑念が穴を穿った。そのあと徐々にふつふつと湧きあがってきた醜い感情は、夜を越えても上手く鎮められていない。 ねえ、気付いていないんでしょうね。貴方が彼について語るとき、紅い眼は夢を見るように遠くへいってしまうんですよ。隠そうとしたって隠し切れていないし、貴方自身に自覚がないのだとしてもよく見ている人には分かってしまう。 そして僕に抱かれるあいだ時折見えた貴方の表情からも、それとそっくりなものを感じたんです。案外目敏いんですよ、僕。貴方が分かりやすいのかな。それに、ごめんなさい、自分でも知らなかったんですが随分やきもち妬きなんですね。僕だって振っ切れていないのにこんな風に思うのは卑怯かもしれませんが。 少なくとも貴方は女のひとではないから、僕は貴方を通して彼女を見ることはないけれど、貴方はきっとまだ僕の向こう側に届かない誰かを見ている。抱きとめようとしたこの腕から、まったく無意識にすり抜けている。それでもきっと手を伸ばせば届く距離にいてくれるから、僕は掬い上げてしまう。今度こそ喪うことのないように。 貴方は一旦ばらばらになった僕をもう一度組み直すきっかけになった唯一の拠り所なんですよ、悟浄。 だからいつか僕も貴方の安寧に、彼にもひけを取らないような、貴方の帰る場所になれたらと、身勝手にも思うのです。 ******************************* 「そういえば、よかったんですか?」 「なーにが?」 「かわいいごじょたんを放っておいて特に用もなく外泊なんて」 「人ん家の子に妙な呼び名つけない。用なら今まさにあるでしょーよ」 「えぇー所詮はカラダ目的ってことですかぁ? やだー鬼畜ー」 「何をどーしたらそんな変換になんだよ……あと、ごじょはとっくにそんな可愛い歳じゃねーって。そもそも俺が追い出されたの。ダチが泊まりに来るんだとよ」 「へえ。奇遇ですねぇ、うちの若いのも友人の家に泊まりに行ってるとかなんとかで」 「ほぉ」 「ところで、捲簾」 「はぁ」 「世間は狭いって言いますよねえ」 「……さあ、割と広いんでねーの」 少なくともこの、中央に敷かれた布団の上で四方八方から書架に監視されているような六畳間よりは。 2013-07-08 |