悟浄がシャワーを浴びている間に八戒は抜かりなくソファの位置を直すと、汁を吸って伸びきったラーメンの代わりにパスタを作り始めていた。
 髪を拭きながら悟浄が出てくると、「食材お借りしました」という律儀なことわりと共にローテーブルに皿が運ばれる。もう昼飯なんて時間でもないな、と悟浄は呆れつつもフォークをとった。ちょこんと隣に座り込んだ八戒は両手で頬杖をつき、変にご機嫌な様子で悟浄が麺を頬張るのを見つめている。
「見られてると食いづれえんだけど」
「初めてなんですもん、食べてもらうの。美味しいですか?」
「……うん、まぁ」
 大の男に似合う筈もない甲斐甲斐しい彼女のような言動も、八戒だと自然なのは何故だろう。どちらかというとされるのはこっちなのに。悟浄は複雑な思いを抱きつつ、文句のつけようも無いペペロンチーノを啜る。初めから好みが読まれていたかのごとく、良い具合に鷹の爪がきいていた。
 ふと八戒が床に転がったリモコンを見つけ、思い出したようにテレビをつけた。進行中のまま放置してあったゲームの画面が再び映る。
「あぁ、これが例の」
 コントローラーをとってじっと暫く画面を見つめ、八戒は何度か頷いた。
「できるかもしれません。本当はゲームとかは従兄のほうが得意なんですけど」
 この前少しだけ話を聞いたな、と悟浄は思い出す。基本家に篭りきりで一応フリーライターの仕事をしている、書痴の男だという。話を聞くに所謂アキバ系の匂いもするのだが。
「へー、いくつ上?」
「確か26歳なんで7つ上……って、言ってるうちに来週には僕もハタチでした」
「誕生日だっけ」
 パスタをもぐもぐ食みながら悟浄が顔を向けると、八戒はゲームの操作を進めつつ「はい」と照れくさそうに笑って答えた。
「俺よりちっと早えのな。イイなー酒煙草やり放題。まぁ俺すでにやってるけど」
「あ、不良だ」
「……酒、」
 一瞬、はっとして悟浄が動きを止めた。数秒のあいだ会話が途切れ、テレビから流れるBGMとボタンを押す音だけが部屋に響く。
「な、お前仕事探してるって言ってたよな?」
「え? そうですね、とりあえずと思ってバイトしてた本屋も潰れちゃって……」
「じゃーさ、」
 ついに鳴り出したゲームクリアの音楽も気に留めず、悟浄は八戒にふと思いついた「名案」を告げた。
 それが後々不思議な人間関係に巻き込まれていくきっかけになるとは、夢にも思わずに。


 筆記体で"Bar Nirvana"と書かれた白い看板が、宵闇の中でうっすらと光っている。
 日曜の午後九時ともなると、普段から割合静かな酒場のあたりには殆ど人けが無い。外で八戒との夕食を終えた悟浄が扉の前に立って店内を覗いたとき、ささやかなテーブル席は空っぽで、7脚ほどの椅子が並ぶカウンターも真ん中の1席しか埋まっていないようだった。
「……ん?」
 ドアに手をかけた悟浄はしかし、ぴたりと止まって目を凝らした。実は初めてまともに見る、カウンターに立つ捲簾の姿。ぴんと伸びた背筋にきちっと着た黒いベストがよく似合っていて、シェイカーを振る仕種も板についている。女性客に寄りつかれて参る、なんてうそぶくのも納得せざるを得なかった。
 が。ちょうどグラスを出して再び引っ込もうとしたその手に、すかさず客の掌が重なった。男のようだ。長い前髪に隠れた顔はよく見えないが猫背気味で、ラフな服装はいまいちバーの常連らしい風情ではない。捲簾はその手を振り払わず、カウンターに向けて何か話している。知り合いか、いや――
「悟浄?」
 少し後ろからついてきた八戒が声をかけると、悟浄は漸くドアを開けた。からん、とベルの音がして、中に踏み込んだときにはすっかり二人の接触はなくなっていた。
「……は、悟浄!?」
 みるみるうちに捲簾が目を見開き、入口のほうへ歩み寄る。その反応に悟浄は少しほっとした。雰囲気のある薄暗い空間に佇む制服姿の捲簾が普段の何倍も大人びていて、なんだか知らないひとのように思えてしまったから。
「成人するまで来んなっつったろーが」
「こまけーこと言うなっての。てゆーか、」
 悟浄が視線をやると、ちょうど「客」が横目に流した視線とぶつかった。その顔を初めて視認してまず、悟浄は驚きのあまり言葉を失った。
「……やっぱり、居たんですか」
 苦笑と共に八戒が言うと、彼に瓜二つの先客が応えて笑いかける。
「ここでは初めまして。八戒と……『悟浄』くん?」
「へ?」
 なんで名前を知られているのかと、混乱した悟浄が間抜け面のまま固まって立ち尽くす。
「そーいや俺、お前になんも言ってなかったっけ?」
「捲簾はあんまり自分のこと話さなさそうですしねぇ」
「貴方が頼んでもないのに勝手に語りすぎなんです」
 どうも、四人の奇妙な繋がりを今の今まで全く感知していなかったのは悟浄だけらしい。もっとも悟浄と天蓬、捲簾と八戒が顔を合わせたのはこれが初めてだったのだが。
「これが例の、従兄の天蓬。そちらの捲簾さんには大学時代からお世話になっているそうです」

 いくらかの説明があってどうにか場が落ち着き、悟浄と八戒は一先ずドアに近い2席に腰掛けた。

「で、急にどうした?」
 二人の前にコースターを滑らせながら捲簾が問うと漸く、悟浄は本来の目的を思い出した。
「や、コイツが訳ありで仕事探しててさ。そーいや捲簾も人手足りねえかもって言ってたし、どうかなーとか思って」
「ほー」
 捲簾がそこで改めて、八戒をじっと見つめた。悟浄も八戒も後から気付いたが、この瞬間から捲簾なりの面接は始まっていたらしい。
「はい。えっと、改めまして、猪八戒と申します。一応、21日に成人いたします」
「酒には強い?」
「まともに飲んだことは未だ……でも親が強かったと聞いてますし、パッチテストとかも」
「じゃ有望だな。おまけに真面目そうで容姿端麗」
「捲簾捲簾、こいつ料理もできる」
「マジかよ。頼もしすぎだろ」
 畳み掛けるように褒められて流石に照れたのか、八戒は視線を少し下げた。その様子に捲簾は感心したように息を吐き、八戒と、ひとつあけた隣に座っている天蓬とを見比べつつ言った。
「顔だけは天蓬そっくりなのに腰低くて気ィ利きそうで、これで仕事こなしちまったらとんだチートじゃねーの」
「心外ですね人を劣化版みたいに。というか貴方、バイト雇う権限なんてありましたっけ?」
「おっさんが旅行してる間は俺がマスターだっての。やる気ある若者をみすみす見逃す人員不足の店なんてあるか」
「なら今日も早く閉めちゃいましょうよぉマスター。なんでガラガラの日曜なんかに営業してるんです」
「その辺は俺も知らねーって。おっさんに直談判しろ」
 からからと、二つ並んだグラスが氷で満たされる音。少し酔っているのか絡みが鬱陶しい天蓬に構ってやりながらも、捲簾はてきぱきと手を動かしている。ポアラーの付いたボトルから赤いシロップが量りとられ、グラスに垂らされる。もう一方には同じように、黄緑色の液体が。捲簾はそれぞれに黄金色の炭酸を一度に注ぐと慣れた手つきでさっと掻き混ぜ、レモンを飾った赤いほうを悟浄の、ライムを飾った薄黄緑のほうを八戒の前に置いた。「俺からのサービス」と片目を瞑ってみせて。
「とりあえず採用と誕生日、前祝いってことで。オメデトー」
「あ、ありがとうございます」
 慌ててちょっと頭を下げる八戒の隣で悟浄はストローに口をつけ、不服げに捲簾を睨んで口を尖らせた。
「なんでアルコールじゃねーんだよ」
「当ったり前だろ営業停止にする気か? 一応外では我慢しろ悪ガキ」
「捲簾に悪ガキとか言われたくねーし」
「テメェの目は節穴か。今やどっからどう見ても優雅でステキなバーテンのおにーさんだろーが」
「……まあ、そーだけど」
「……って、なんか言い返せっての」
 珍しく素直な悟浄の反応が予想外だったのか、捲簾も誤魔化すように溜息をつき、口許を手で覆って目を逸らした。こっちが恥ずかしい、と言わんばかりに。八戒は戸惑ったふうに、天蓬は呆れたふうに、しかし両者とも無自覚にうっすらと青筋を立てながら、そんな二人を眺めていた。


 とにもかくにもこうして、八戒は手に職を得た。
 捲簾の採用時と同様、新しいバーテンダーの噂は徐々に広まっており、客入りも上々だ。帰国したマスターは益々若い女性客の増えた店内に面食らってしまったようだが。

「もーなんでバイトなんか雇っちゃうかなぁ。八戒だから許しますけどね。元々このまま捲簾ひとりにお店が任されるかもって話じゃありませんでしたっけ? そしたらこの前みたいに閉店後のスタッフルームで」
「お客様?」
 すっかり廻ってべらべら喋り出す天蓬を無視していた捲簾が、急にわざとらしく畏まった口調で水を差し出した。金曜の夜である程度席も埋まっていたが、その誰もがそんな光景を怪しむどころか密かに笑っているか、大して気に留めていない。
 ――ダメよ、ケンちゃんには本命がいるんだから。
 手伝いとしてバーの「内側」に入るようになってから一ヶ月ほどで八戒は、捲簾に秋波を送る一見の女性を常連客が楽しげに引き止める様子を、飽きるほど見かけることになった。
 天蓬は度々店に現れては2杯程度で粘りつつ隙を見て捲簾に絡むため、常連の間ですっかり噂が拡がり、二人のやりとりはもはや名物になってしまっているとか。それはそれで一種の宣伝になるし、客に本気で言い寄られてトラブルに繋がる心配も無くなる。しかし来る客来る客にホモだと思われるのも喜ばしくはないから、捲簾は有難さと迷惑が半々といったところらしい。
 天蓬が捲簾を唯の友人と思っていないことも、捲簾がそれを承知しているらしいことも薄々察していた八戒は、そんな店の空気にもすぐ馴染んでしまった。――実際のところ二人がどこまで進んでいるのか訊くことは、流石に気がひけたが。
 因みに「突然採用された天蓬似のバーテン」として八戒も初め噂の的になったが、捲簾にも天蓬にもビジネスライクな対応を心がけているため妙な勘繰りはされていないようだ。

 それから更に数ヶ月後の話だが。

「『お客様』、今日は少し早いですね?」
「バイト早く上がれたから……つーか、マジその呼び方どうにかなんねーの」
「親しく接すればすぐによからぬ噂が立つと、尊敬する先輩から学んだもので」
「……あ、そっすか」
「ではお客様、今日もいつもの?」
「……ハイ」
 悟浄が店に訪れる日だけ、二人の間には新しい関係が成立した。
 思えば八戒の強かさがより増したのはバーテンダーの仕事を始めてからのことだったろうか、とのちに悟浄は思った。





2013-09-21