「結婚すんだよ、来月」
 ぐいと煽った一杯目のジョッキを置いてすぐ、大したことでもなさそうに捲簾はこぼした。ついさっき「とりあえず生中」と注文したのと丸っきり変わらない軽い調子で、鉛のように重いことばを。
「……それは、おめでとうございます」
「おう」
 随分と幸せそうに緩んだその顔に、不意を突かれて腑抜けた顔を向けたくなくて、ジョッキを思いきり傾けた。喉を通りぬける奔流が渇きを潤してゆく。
 けれど胸にかけて魚の骨がつっかえたような痛みは、流されるどころか酷くなる一方だった。
「居たんですね、付き合ってる人」
 知らなかった。そこからして知らなかったのだ。報告の順序がだいぶ飛んでいる。確かに彼がモテることは学生時代から承知だから、驚くようなことではないけれど。
「ああ、言ってねえっけ? もう1年ぐらいになるんだけどよ」
 なんで話してくれなかったんですか。4ヶ月ほど前、年末にも一度会ったのに。
「なんで話してくれなかったんですか」
 頭に浮かんだ言葉をそのまま、けれど本音よりもずっと軽く、ほんのちょっとばかり不機嫌な声音で口に出す。この人の前で咄嗟に自分を誤魔化すことには慣れてしまったらしい。
「言い忘れてただけだって。拗ねんなよ」
 やれやれ、と言わんばかりに捲簾は眉根を寄せて笑い、僕の頭にぽんと手を置いた。
 触れたところが弱く、甘く、痺れてしまうような感覚を覚え出したのはいつからだったか。別れてから次に会うまでのスパンが長いほど、その症状は重く感じられる。
「そっちは最近どーよ?」
「どう、って」
 久々に会った友人にするべき、ごく自然な挨拶だということは分かる。けれど「この流れ」で訊かれれば、こちらは返答に窮してしまう。
「……仕事が漸く軌道に乗ってきたってところです。貴方は?」
 片眉を吊り上げた顔が、態と話題を逸らした僕の内心を見透かしているようで、心臓が一瞬跳ねた。しかし捲簾はすぐ不敵な笑みを浮かべ、素直に僕の問いかけに乗ってくる。
「この前の写真がちっと話題になってさ、昨日出版社から受賞の電話あったんだよ」
「へえ」
 この前の、とは先月まで彼が赴いていた内戦のことだろう。
 大学在学中から偶にカメラを携えて海外を放浪していた捲簾はいつからか、紛争地域で写真を撮影して出版社に売る――いわゆるフリーの戦場カメラマンとなった。
 作家の僕と同じく稼ぎは不安定で、その上あちらには命の危険が常に伴う。海外に長期滞在するとなると国内の家族や友人にも中々会えない。だからこそ、まさかこんなに早く結婚を決めてしまうとは思っていなかったのだけれど。
「じゃあそっちのほうも前祝いってことで」
「大したモンじゃねーけどな」
 謙遜しつつ捲簾は満更でもない顔で、僕の差し出したジョッキに自分のジョッキを軽くぶつけた。
「暫くはこっちで地道に稼ぐしかねーし、嫁さんにも子供にも苦労かけっからさ。こーゆーのがちょっとでも足しになりゃいいんだけどよ」
「……子供?」
 あ、と声を漏らした捲簾がきまり悪そうに手で口許を覆った。ああ成程、そういうことか。別段意外な話でもない。
「相変わらず手が早いことで」
「うっせぇ」
 子供だけが理由ではないにしろ、踏み切る決め手にはなったのは確かだろう。
 ――僕だって「責任とって」なんて言える身体に生まれていれば、どんなに良かったか。
 ふいに頭をかすめた酷い想像を心の中で笑いながら、残ったビールを一気に飲み干した。

 それから暫くカウンターで呑み続け、捲簾に肩を貸してもらいながら帰路についた。
 本当は、歩けないほど酔っていたわけじゃない。じきに奥さんと子供だけのものになってしまう前に、その掌の温かさを、首筋の匂いを、自分の中に刻みつけておきたかっただけだ。
「そーいや、またちゃんとメシ食ってねーだろ」
 しっかりと正面を向いて歩きながら、捲簾が呟くように訊いた。訊いたというより確かめた、か。とうにお見通しなのだろう。
「なんでそんなこと気づくんです」
「お前の健康管理のプロだぞ俺様は」
「……そうでしたっけねぇ」
 あちらの肩に回した手首を、「ほっせぇ」なんて言いながら捲簾がぎゅっと握った。驚いて少しよろめけば、もう一方の手が支えるように腰に添えられる。
「……っ」
 大きな掌から、じわりと体温が沁みてくる。微妙に際どいところに、布越しに、陽だまりのようなやわらかな温度。
 たまにこうして触れられる感覚はやはり残酷なほど快くて、もっと触れてほしくなる。こちらからも、触れてみたくなる。
「捲簾」
 零れ出るように発した声に反応して、捲簾が僕に顔を向ける。紫がかった双眸が街燈の下で煌めく様に、思わず息を呑んだ。
 伝えるだけ伝えればいい。「酒の勢い」でぶちまけてしまえばいい。
 そうは思えど実際の思考は極めて冷静なままだ。一度深呼吸をして、成り行きまかせに口を開いてみれば。
「……おかえりなさい」
 飛び出すのは結局、そんな他愛もないひとこと。
「……ん、ただいま」
 けれど、そのやりとりだけで充分に幸せだった。



 瞼を開ければ、目の前には深紅色の頭。
 疲れ切って今まで微睡んでいたのか。よりにもよって、随分と懐かしくやりきれない場面を夢に見たものだ。
「……」
 乱れた――僕が乱したとも言う――長い髪をたっぷりと湛えた後頭部は、呼吸のリズムに合わせて微かに揺れている。まだ眠っているのだろう。
 こっそりと首筋に鼻先を寄せ、深く息を吸いこんだ。仄かにあの夜の匂いがする。確かに違うものではある筈なのに、どこか懐かしさを感じさせる匂い。やはり遺伝子というやつは誤魔化せないらしい。
「なんだよ」
「、」
 予想外の声に一瞬、硬直した。
 起きてたんなら言ってくれればいいのに。完璧に油断したじゃないですか、意地悪。
「いえね、汗くさいなぁって」
「……テメーが滅茶苦茶したせいだろーが」
「煽ったのはそっちです」
 息遣いが、途切れがちな声が、べたついた肌の熱さが、次々と鮮明に思い出される。同時に頭を過ったのは甘くも苦くも感じられる背徳感と、いつかどこかで聞いた声。
 ――可愛いうちの子が変態な天蓬オジサンの毒牙にかからねーか心配だわ。
 ――なんで僕がセットなんですか。というかそこまで倫理観欠落してませんし現実にアブノーマルな嗜好とか持ち込まないんで僕。
「欠落、してたみたいですねぇ」
「あ?」
「持ち込んでますし」
 ひとりごちる僕に、「可愛いうちの子」が訝しげな視線を向けてくる。
 それにしてもよく考えてみれば、あの時すでに子供の性別ぐらいは分かっていたんじゃないだろうか。あれ。だとしたら捲簾のあの言葉は、もしかして。
「……はぁぁ」
 ガスが抜けきったような派手な溜息が漏れ、そのまま布団に思いきり突っ伏した。
 どこまで気づかれていたのかなんて、今となっては分からない。分かりたくもないけれど。
 何度か頭をつつかれて顔を上げれば、いつの間にか悟浄の表情は幾分か和らいでいた。依然不可解そうに顰められた眉の下で、瞳のほうは心配げに揺れている。
「……せんせ?」
 戸惑うようないじらしい声でそう呼ばれるのに、僕がどれだけ弱いことか。
 そろそろ確信犯だとは分かっていても、やっぱり堪らなく惹かれてしまう。軽率にも萌えてしまう。勢い余ってちょっと元気になってしまう。何なんでしょうねこの回復力は。
「悟浄」
「ん」
「実は去年あたりから自信を無くしかけてたんですけど。悟浄のおかげで、まだまだ頑張れそうな気になってるんですよ」
「は?」
「貴方バイアグラか何かですか」
「そろそろ訴えんぞオッサン」
 一転して人を殺せそうな冷たい視線が突き刺さる。それはそれで素直じゃなくて可愛いなんて思えてしまうあたり恋は盲目というか、痘痕も笑窪というか。
「……あ、」
 換気の為に少し開けていた窓から強い風が吹き込む。すると悟浄の眉間に寄った皺に、どこからか舞い込んだ桜の花弁がふわりと着地した。
 住み着き始めた頃も、桜が満開だったのを思い出す。あれから何年経つのだろう。その間何度もひとり遊びに興じたこの部屋の布団の上には今、どういうわけか、こんなにも優しく温かい命が横たわっている。遠い遠い春に芽吹き、いくつも季節を越えて根雪の如く残っていた彼への執着は、徐々に解け始めているのだ。
 嗚呼、漸く春が来たのか。随分と遅れた青い春が。
 けれど花の盛りだって、あっという間に過ぎ去ってしまうものだから。父親以上にお人好しの彼でさえ、いつかは離れて行ってしまうだろう。
「……泣いてんの、せんせ」
 目ざとい子供を無理矢理抱き寄せると、胸の中でむぐ、と呻かれた。そのまま腰に脚を絡め、抱き枕のようにぎゅっときつく全身を抱え込む。
「……欠伸ですよ。ね、もう一眠りしましょう」
 自分よりも大きなその温もりは物も言わず、暴れもせず、ただじっと静かに腕の中に在った。
 ずっとこのままで、なんて馬鹿なことは言わないけれど。もう少しの間だけ、草臥れた男に訪れた最後の春を、どうかその紅で彩ってくれないか。
 またびゅうと風が吹き込んで、長く垂れた髪の先を躍らせる。
 視界にちらつくそれはまるで、舞い散る花弁のようだった。





2014-07-04